4/約束と喪失






チッ、チッ、チッ───
秒針の音で目が醒めた。

志貴 「ん───」

ゆっくりと目を開ける。
その先には見覚えの無い天井。
ここは何処だろう、と。そんなことを考えた。

志貴 「───」

意識は覚醒している。
しているのに───
自分が、誰なのか、わからない───

───トントン

ふと、ノックが聞こえた。
……しばらくして、ゆっくりとドアが開く。

翡翠 「志貴さま───お目覚めでしたか」

女の子が、ぼくに向かって言う。

翡翠 「失礼しました。まず確認をとるべきでした」

なにを、言っているのだろうか。

翡翠 「あの、志貴さま?お体の具合が悪いのですか?」

小さな質問。
そんなこと、ぼくはわからない。
ああ、でも───

志貴 「………」

ただ、なんとなく。
なんとなくだけど。
この子を不安にさせたくないと思った。

翡翠 「志貴、さま?」

でも。
ぼくは、この子の名前も思い出せない。
だから、傷つけるって分かっていても───

志貴 「キミは……誰?」

そう言うしかなかった。

翡翠 「───!」

ああ、やっぱり。
こんなことを口にしたら、彼女が困ることくらいわかってた。
わかってたのに。

翡翠 「志貴さま、なに、を───」

震える声。
それを信用したくない。その事実を拒みたい。
そんな、悲しい声。
そんな声が聞きたかったんじゃないのに。

志貴 「わからないんだ、なにも……」

でも、ぼくは何も知らない。

翡翠 「志───」

愕然とした顔。

翡翠 「志貴さま、冗談は───やめて、ください。わたし、怒り、ます」

嗚咽を噛み殺した声。
悲しませるつもりなんてなくても。
ぼくのこの現状は、彼女を悲しませるものなんだ、と。
実感してしまった。

志貴 「───……」

だから、ぼくは何も言えないでいた。
それが最善の方法なんだって思って。
だけど。

翡翠 「──────っ」

女の子は泣いてしまった。
どうして泣くの?とは言えなかった。
ただ、女の子が手に持っていた小さな包みだけが、小さな音を立てて絨毯に落ちた。

───
………………

アルク「……志貴?」

金髪の女の人が話し掛けてくる。
ぼくはなんて言っていいかわからなくて、ただおろおろするだけだった。

アルク「…………」
琥珀 「落ち着いてください志貴さん。別に怒ったりしませんから」
志貴 「…………」

しばらくして、とりあえずぼくの名前が『志貴』だということがわかった。

シエル「まあ一時的な記憶喪失だと思いますね。
    誰かさんが見境無しにタックルなんてするからですよ」
アルク「う」

金髪の女の人が一歩後退した。

アルク「なによ。わたしだけが悪いみたいに言わないで」
シエル「みたい、じゃなくて事実でしょう。まったく、これだから吸血種は」
アルク「……なによ。いまはそんなこと関係ないんじゃない?」
志貴 「や、やめてっ。思い出せないぼくが悪いんだから」

そんな様子を見て、嫌な予感を頼りに止めた。

アルク「あ……」
シエル「遠野、くん……」
アルク「……反省してるわ。こんなことになるなんて思わなかった」

ぼくを見て、金髪の女の人は悲しそうな顔をした。

シエル「よく言います。見境無しに襲いかかっていたくせに」
アルク「なによシエル。わたしだって別に、志貴をこんな風にしたかったわけじゃ」
志貴 「や、やめて……!」
シエル「あ……」
アルク「………」

ただ、このふたりは喧嘩させちゃいけないと思った。
それはなんか、特別な意味で。

秋葉 「兄さん、秋葉です。思い出してください……」

ぼくの前に屈み込み、ぼくの目を見る女の子。
……ただ、ふいに。
昔、こんな目をしてぼくに付いて来てた少女の顔がダブった。

秋葉 「あ───」

女の子が声をあげた。
あんまりに泣きそうだったから。
ただ、ぼくは頭を撫でてあげた。

秋葉 「兄、さん───」
志貴 「……どうしてだろう。ぼく、キミには泣いていてほしくないみたいだ……」

心からそう思った。
だからこんなことで、もし笑ってくれるのなら。
ぼくはずっと撫でていてもいいと思えたほどだ。

秋葉 「───兄さんは、やっぱり兄さんだ───」
志貴 「えっ?ど、どうして泣くの?ぼく、なにかいけないこと、しちゃったのかな……」
秋葉 「ちがっ───違う、んです……兄さん。秋葉は、嬉し、くて───」

ぼくを兄さんと言ってくれる女の子は、その場で泣いてしまった。
それを見て、ぼくはとても心が痛んだ。

アルク「ねぇシエル」
シエル「なんですかいきなり」
アルク「もしかしてさ、いまの志貴ってかなり純粋?」
シエル「純粋中の純粋でしょうね」
アルク「ふーん、そっかそっかー。じゃあ、本音を訊くなら今ってわけね」
シエル「本音?」
アルク「この中の誰が一番好きか」
シエル「!!」
アルク「ね、志貴。この中で誰が一番」
シエル「やめなさいこのアーパー吸血鬼!」
アルク「……怖いの?」
シエル「こっ……怖くなんかありません!遠野くんはわたしを選んでくれます!」
アルク「そ。じゃあいいじゃない」
志貴 「え───」
シエル「遠野くん。この中で誰が一番好きですか?」
アルク「志貴、誰が一番好き?」
志貴 「え?え?」

ふたりが、怖い顔でぼくに迫る。
顔は笑っているのに、どれかひとつでも言葉を間違えると、戻ってこれなくなりそうな。
そんな、危うさ。

志貴 「ぼ、ぼくは」
シエル「ぼくはっ!?」
志貴 「…………ぼくは」
アルク「志貴!じれったい!」
志貴 「あ……」

怖い。
ふたりはどうしてこんなにもぼくに怒鳴るんだろう。
ぼくはなにか、いけないことをしてしまったんだろうか。

アルク「志貴!」
シエル「遠野くん!」
志貴 「───」

途端、心細くなった。
ぼくはなにも知らないのに、どうしてこの人たちはぼくに怒鳴るんだろう。
ぼくの味方は居ないのだろうか。
そう思うと、視界が少し滲んだ。
その時。

 「───いい加減にしてくださいっ!」

そんな声が、居間に響いた。

翡翠 「──────」

最初にぼくと話をしてくれた子が、肩を上下させながら叫んでいた。

アルク「ひ、すい……?」
シエル「え……っと……」

怒った顔は少し怖かったけど。
ああ、なんだか。
無条件で、この子には心が許せると───。
この娘だけは、ぼくの味方で居てくれると。
そう、思って。
ぼくは滲んだ視界を一層滲ませた。

翡翠 「今がどういう状況かわかっているのですか!?
    記憶をなくしてしまった志貴さまに対して、
    どうしてそのように責めるような行為が出来るのですか!」
アルク「…………」
シエル「…………」
琥珀 「───」
秋葉 「───」
琥珀 「あ、ちょっと、翡翠───ちゃん?」
翡翠 「あ───」

割烹着を着た女の子に声をかけられた途端、女の子は真っ赤になって俯いてしまった。
そんな顔が見ていられなくて。
ぼくは、彼女の袖を引っ張った。

翡翠 「え───」

そして、少しの涙に濡れた彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて。
思った言葉をそのまま吐いた。

志貴 「泣かないで。ぼくは、キミを信じるから───」

どこかで聞いた言葉だった。
幼い頃、ただの一度だけ聞いたような、そんな心許無い言葉だったけど。
彼女は驚いたような顔をしたあと、

翡翠 「しき……志貴さまぁ……」

ぼくを見て、泣いてしまった。
…………なんだろう。
ぼくは人を泣かせてばっかりだ。
ぼくは一体、どんなヤツだったんだろう。
少し、自分が嫌いになってしまった。

アルク「あ、志貴。わたしも信じていいよ」
志貴 「いやだ」
アルク「えー?」
志貴 「キミは喧嘩してばっかりで、なんだか怖いんだ」
アルク「あ───」
シエル「…………」
アルク「……気付いた?」
シエル「ええ……思いっきり、わたしまで同類として睨まれました。……ショックです」
琥珀 「志貴さん、お腹はへってませんか?」

落ち込む彼女らを気にもせずに、割烹着の女の子が話し掛けてくる。

志貴 「えっと……」

目の前の女の子は笑顔だった。
何がそんなに楽しいのか。
それはわからなかったけど、なんだか作り物めいている気がした。

志貴 「…………」

それは、どう表現したらいいんだろう。
表情は豊かな気がするのに。
どうしても、感情をぶつけられている気が、しなかった。
それは表情豊富なのに無表情。
そんな雰囲気だった。

志貴 「……どうして」

……話すな。
話したら───

志貴 「…………」

話すな。
話せば、彼女は───

志貴 「…………」

彼女は…………
どうなるっていうんだろう。

志貴 「ねえ、キミはどうして───」

どうして、そんなに悲しい顔で笑っているの───?
そう言おうとして、声が出なかったことに気付く。
なにか、それを言う前にやらなきゃいけないことがある気がして。
でもそれが思い出せなくて、ぼくは悲しくなった。

琥珀 「わたしがどうかしましたか?」
志貴 「あ……ごめんなさい、なんでもないんです」
琥珀 「あはは、おかしな志貴さん」

おかしいのかな、ぼくは。
と、そんなことを考えていたら、黒い猫がぼくの膝の上に乗ってきた。

志貴 「?」
レン 「…………」

ぼくを見上げる黒猫。
とても純粋な目。

志貴 「…………」
レン 「…………」
志貴 「…………」
レン 「…………」
アルク「むー、なに世界作ってるのよ」

ひょいっ、と猫が持ち上げられた。

志貴 「あっ」

それを無意識に庇い、黒猫を抱きかかえた。
そして無意識に、彼女を睨んでしまった。

アルク「志……」
志貴 「…………」
シエル「ふっ、嫌われたものですね」
アルク「…………」
有彦 「まあまあおふたりさん。ここは親友の俺がバッチリ解決してみせますんで」

妙な男が現れた。

志貴 「キミは?」
有彦 「ん?ああ、俺はお前の親友にして最強のライバル、乾有彦ってモンだ」
志貴 「有、彦……」

なんだろう、なにか無性に彼の理不尽さというか回復力というか、
何か得体の知れない単細胞を感じた気がした。

有彦 「ああ、実はな遠野。お前は俺に金を借りて」
翡翠 「───乾さま」
有彦 「……いないんだ」
アルク「…………」
シエル「…………」
アルク「……役立たず」
有彦 「はうっ!」
シエル「乾くんに期待したわたしがバカでした。乾くんは輪をかけてバカですが」
有彦 「はうっ、はうっ!」

一歩、二歩と後退する有彦という男。

有彦 「遠野くんのバカぁああああああああっ!」

有彦くんは泣きながら走っていってしまった。

琥珀 「そっちは食堂ですよー」
有彦 「食ってやる!遠野のために用意されたものなんて食ってやるーっ!」
琥珀 「あ、だめです乾さん!それは」
有彦 「───うぅううまぁああいぃいいッ!ぞぉおおおおおおおっ!!!!」
琥珀 「あ〜……」
翡翠 「姉さん……何を入れたの」
琥珀 「あ、えっと、やだなー翡翠ちゃん。志貴さんの料理に幻覚剤なんて」
翡翠 「姉さん……っ!」
琥珀 「あ、ひ、翡翠、ちゃん?」
翡翠 「いくら姉さんでも、今の志貴さまに手を出すなんて……!!」
琥珀 「あ、あうう、ひ、翡翠ちゃ……落ち着いて……」
有彦 「この肉の柔らかさ!そしてこのスープのコク!
    長時間煮ながらアクを取り続けた料理をする者の心!
    そして何よりこのデザート!
    食後の爽やかさを増すだけではなく、口の中に残ったまったり感を一掃し、
    蟠りもなく箸を置けるこの美味しさ!
    これはぁああああああああああっ!とんでもなくぅううううううっ!!
    美味い!美味いッ!美味いぞぉおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!
    この大海原すらも走りぬけられるような心地よさ!
    おお!わたしは今、味の世界を知ったぁあああああああっ!!」

叫びながら走りまわり、やがてドゴォッ!

有彦 「ハオッ!」

ドサリ。
壁に激突して倒れた。

琥珀 「なにか衝撃があれば治るって思ったんですよー……。
    それが、こんなことになるなんて」
翡翠 「姉さん、志貴さまの料理に薬を混ぜるのはやめて……。
    秋葉さまにならいくらでも構わないから」
秋葉 「そこ、ちゃっかり凄まじいこと言わないで」
アルク「あー、でもショック療法か。いいかもね」

腕まくりをして、金髪の女の人が向かってくる。
その顔は笑顔だった。
だったのに、何故か絶望が頭の後ろ辺りに溜まっていった。

アルク「せえーのっ!」
シエル「待ちやがりなさい!」

ドゴォッ!

アルク「くはっ……」
シエル「ぐはっ……」

ドサッ。
綺麗なクロスカウンター(両方)が決まった。
やっぱり、この人たちは苦手だ。
なんだか怒ってばっかりで、しかも争ってばっかりだ。

志貴 「あ、の、ぼく、部屋に戻っていいかな」
翡翠 「はい、志貴さま」

女の子がぼくに付き添ってくれた。

秋葉 「翡翠」
翡翠 「……なんでしょうか、秋葉さま」
秋葉 「兄さんの面倒は私が見ます。貴女は掃除でもしてなさい」
翡翠 「……お断りします」
秋葉 「なっ……」
翡翠 「申し訳ありませんが、志貴さまの付き添いはわたしがいたします」
秋葉 「翡翠。私の言うことが聞こえなかったの?」
翡翠 「ですから、お断りします」
秋葉 「…………」
翡翠 「…………」
琥珀 「あ、えーと、翡翠ちゃん、秋葉さま、とりあえず落ち着いて」
秋葉 「貴女は黙ってなさいっ!」
翡翠 「姉さんは黙ってて!」
琥珀 「あ───」

しゅん、と一際悲しそうに目を伏せる割烹着の女の子。
その目が、遊んでいる子供達の中に入りたいという目に見えたのはどうしてだろう。

───どくん。

心臓が、高鳴った。

───ドクン。

ただ、どこかの景色が頭に浮かんで。

───どく、ん。

小さな、声が、聞こえた───。


  ───かしてあげるから、返して。


小さな声とともに差し出されたリボン。
ぼくはそれを受け取って、とても大切な約束をした。
穏やかな、大きな木の下で───

志貴 「あ……」

そうだ。
さっきの彼女の目は、あの日の女の子の瞳と同じものだった。
だとしたら。
ぼくはこの人にお礼を言わなくちゃいけない。
それがどうしてかは思い出せないけど、約束は確かにあったのだから。
そう思った瞬間、ぼくはさっきまで居た部屋へと走った。

翡翠 「志貴さま!?」
秋葉 「兄さん!何処へ!?」

ふたりの静止の声が聞こえたけど、さっきから心臓が騒いでいて、
落ち着いてなんていられなかった。

───どくん。

部屋に入って、引出しを開けた。

───ドクン。

白いリボンを取り出して、ポケットに仕舞う。

───どくん。

いてもたってもいられなくて、ぼくは部屋から飛び出した。

志貴 「…………っ」

行く場所は……多分、心が憶えている。
その証拠に、自分の意思とは関係なく、その場所に走っている。

琥珀 「志貴さん、いったいどうしたんですか」

途中、心配して来てくれたのか、割烹着を着た女の子が階段のほうから上がってきた。
ぼくはその娘の手をとって、また走る。

琥珀 「きゃっ!し、志貴さん!?あぶないですよっ!」

かまわない。
また忘れてしまわない内に、借りていたものを返したかった。
だからそのまま玄関を突っ切って。
あの、約束の場所へ───

…………

そこは、あの頃と変わらず穏やかな場所だった。
涼しい風が吹いていて、心から安心できる場所。

琥珀 「─────────」

女の子は息を呑んだっきり、喋らない。
ただその木を。
草を。
場所を見ながら、やがてぼくを見た。

志貴 「ぼく、最初にやらなきゃいけなかったことがあった」
琥珀 「志貴、さん?」
志貴 「ぼくが誰なのか、自分でもわからないけど……でも、とても大切なことがあった。
    それだけは、確かに憶えてる。そして、それが……」

キミに、このリボンを返すということ。

琥珀 「あ……」

また、息を呑む音がした。

志貴 「ぼく自身は覚えてないけど、でも心が憶えてる。
    ぼくはキミにこの借り物を返すために、ここに居るんだって───」

だから、と。
リボンを見つめたまま動かない彼女の手をとって、リボンを握らせた。

志貴 「ありがとう。ぼくはきみに『返してね』って言われたことで、救われたんだ。
    ああ、またここに帰ってきてもいいんだ、って。
    でも、それでもここには帰ってこれないんだって幼心に理解しちゃってたんだ。
    だから、真っ直ぐに頷いてあげられなかった」
琥珀 「──────」
志貴 「すぐに返してあげられなくて、ごめん」

そして───

志貴 「ただいま……琥珀ちゃん」
琥珀 「あ───あ、……───」

つぅ、と。
目の前の女の子の目から涙がこぼれた。
泣かしてしまうつもりなんてなかったのに。

志貴 「え?ぼ、ぼくなにかヒドイこと言っちゃったかな……っ!」
琥珀 「…………いいえ……。ありがとう、ございます……志貴さん……」

そうやって初めて。
ぼくは、彼女の笑顔に会えた気がした───

………………
…………








 5/後始末








志貴 「…………」
翡翠 「…………」
秋葉 「…………」
琥珀 「…………」
志貴 「えっと」
翡翠 「いかがされましたか志貴さま」
秋葉 「兄さん、どうしました?」
琥珀 「志貴さん、どうかなさいましたか?」
志貴 「…………」

なんだか、心が休まる場所が無くなってしまったみたいだ。

翡翠 「姉さん」
琥珀 「なにかな、翡翠ちゃん」
翡翠 「……どういうつもりですか?」
琥珀 「あはー、いろいろ事情があったり」
秋葉 「琥珀、兄さんのお世話は私だけで十分です。だから」
琥珀 「お断りします」
秋葉 「琥珀っ……!」
琥珀 「あはは、脅したってダメですよ秋葉さま。わたし、志貴さんのためなら───」
翡翠 「姉さん、姉さんの主人は秋葉さまでしょ。志貴さまのことはわたしに任せて」
琥珀 「翡翠ちゃんにも譲れません」
翡翠 「…………」
秋葉 「…………」
琥珀 「…………」
志貴 「…………」

どうしてこうなってしまったんだろう。

秋葉 「兄さん、琥珀に一体何をしたんですか」
志貴 「え───」
翡翠 「……姉さん、そのリボン、まさか」
琥珀 「はい♪返してもらったんです」

幸せそうな顔をする。

翡翠 「……志貴さま、なにも思い出せないのではなかったのですか───?」
志貴 「……うん、どうしてかな。そのリボンのことだけは、思い出せたんだ」
琥珀 「きっと大切に思ってくれてたんですねー。嬉しいです」

がばっ。

志貴 「あっ」
琥珀 「うわー、志貴さんの頬ってツルツルですね」

ちむ。

志貴 「あ、え?」
琥珀 「あは、キスくらいは許してくださいね」
秋葉 「こぉおおおっ!!」
翡翠 「ねっ───姉さん!!」

なにやら、大気が震えているのがわかった。
ここに居たら死んでしまう。
この世界にぼくが落ち着ける場所は無いのだろうか。
三人が睨み合っている間に、屋敷をあとにした。
旅に出よう。
もしかしたらぼくは必要とされていないのかもしれない。

ちりん。

志貴 「え?」
レン 「…………」

黒猫が、ぼくの後に付いて来た。

志貴 「……一緒に、来るかい?」
レン 「…………」

猫は鳴かない。
かわりに、差し出した手を踏み台に、ぼくの肩に乗った。

志貴 「……いこうか」
レン 「…………」

やがて、ゆっくりと歩き出した。
宛ての無い、平穏への旅へ。

………………
…………

ああ、空が青い。
なんて、綺麗な蒼───

どこかの草原。
木の下の木陰に寝転がりながら、空を見上げた。

とても静かな。
昔、こんな静かな風景を、誰かと一緒に過ごした気がする。
その人は厳しいけどやさしい人だった。
あの人に会わなければぼくはここには居なかったとさえ言える。
でもそんな人とももう会うことはない。
そう、心が確信していた。

志貴 「…………」

視線を動かすと、ぼくの顔の隣りで静かに寝息をたてている黒猫。
どこに居ても、この猫の穏やかさは変わらない。


───ああ、それにしても。

          なんて、いい天気、なんだろう───


静かに目を閉じると、それだけでぼくは深い眠りに飲み込まれていった。
そのあとにただ懐かしい匂いがして。

久しぶり、志貴

そんな声が聞こえたあと、ぼくの頭に強烈な一撃が見舞われた。

───……。
………………
…………








 6/練裏茶戯






───夜の風で目が醒めた。

志貴 「……なんで俺、こんなところに寝てるんだ?」

さっぱりだった。
どこだここは。

志貴 「つぅ───!?」

頭がずきりと痛んだ。

志貴 「あ、眼鏡───」

……してある。
どうやら目が原因の頭痛ではないらしい。

志貴 「……?」

頭を撫でてみると、タンコブが出来ていた。

志貴 「……なんだ、これ」

呆れながら立ちあがった。

志貴 「…………あ、ここ……」

立ちあがって気がついた。
ここは───先生と、初めて会った場所だ。

志貴 「…………」

素直に懐かしいと思った。
そして、

志貴 「もうちょっと、ここに居るか───」

そういって、再び寝転がった。

…………
───その頃の赤裸々白書。

秋葉 「お言いなさい!兄さんは何処に居るんです!」
有彦 「は、はは」
琥珀 「早く言ってくださいな。じゃないと、自白剤の出番がやってきてしまいますよ」
有彦 「あ───は、ははははは」
翡翠 「─────────白状を、乾さまです」
有彦 「はぁ、はああ……ぁ」
アルク「白状しないと胴体から首を引きぬくわよ」
有彦 「は───ぁ、は、あはは、は、は」
シエル「乾くん。急所を外して黒鍵20本と急所を的確に1本、どっちがいいですか?
    あ、それとも第七聖典で頭ごと吹き飛ばしましょうか」
有彦 「は、あははは、はは、あははあはあはあ───あはははははははは!!」

殺気に囲まれて、彼はとうとう壊れた。

有彦 「遠野くんの馬鹿ああああああああああああっ!」

しかもどこかで聞いた言葉だった。


………………
───と、まあ赤裸々白書は地獄を見たということで。
記憶を取り戻した志貴くんが、乾邸に帰ってきた彼と出会うのは、その次の日の昼だった。

志貴 「……老いたな、有彦」

すっかり髪の毛が真っ白になってしまった有彦を見て、俺は肩を落とした。

有彦 「……フフ、遠野……。オレはお前を誤解していたようだ……。
    お前があんな激戦区域で生活していたなんてな……」

かなり悲しそうだ。

有彦 「というわけで、オレの命のために観念して捕まってくれ」
志貴 「へ?」

バンッ!

秋葉 「兄さん!」
志貴 「え?な───」

秋葉が乾邸に乗り込んできた。

秋葉 「兄さん……やっぱりここに居たんですね……。
    記憶を無くしても、本能が呼応したということですか……。
    それでね、兄さん。相談した結果、やっぱりショック療法が一番だって」

マテ。
何を勝手に話を進めちゃっているのですか秋葉サン。
それ以前に話が飛躍しすぎてますぞ!?

秋葉 「恨まないでくださいね、これも兄さんの記憶を戻すため……っ!」

待て!記憶ってなんのこと!?

秋葉 「妹ネリチャギィッ!!」
志貴 「ま、待て秋」

ドガァン!!
どしゃ……。
範馬勇次郎に匹敵する鋭いカカトが俺の脳天を襲った。
当然叫ぶ暇も無く、俺は有彦の部屋の畳に叩きつけられた。
ふふ、秋葉……いつの間にこんな高等技術を……。
インパクトまでの動作がまるで見えなかった───

その後、俺は秋葉にズルズルと引っ張られて遠野家に連れ戻された。

志貴 「…………」

で、現在に至る。

秋葉 「記憶が戻ってなによりです、兄さん」

爽やかな顔で言われてもな。
だがボウとしている間に聞こえてきた会話で合点がいった。
どうやら俺は本当に記憶を無くしていたらしい。

志貴 「秋葉……」
秋葉 「なんですか、兄さん」
志貴 「その……さ、俺ホントに記憶を失ってたのか?」
秋葉 「はい。恐らくアルクェイドさんの猛攻から私を庇った時の衝撃で……」
志貴 「…………」

言われてみれば、そこからの記憶がすっぽりと無い。

志貴 「悪い、迷惑かけたみたいだ……」
秋葉 「気にしないでください。おかげで、兄さんの素直な気持ちが聞けましたから」
志貴 「…………え?……す、素直な気持ちって、なんのことだ?」
秋葉 「なんでもないわ、兄さん。確信が持てただけで十分ですから」
志貴 「…………?」

訳が解らない。

琥珀 「志貴さん、夕食のリクエストはありますか?」

ふと、琥珀さんの声を聞いた。

志貴 「え?あ、琥珀さん」

見れば、食堂から出てきた琥珀さんが俺に向かって微笑んでいた。

琥珀 「はい、琥珀さんですよー」

なにがおかしいのか、クスクスと笑っている。
その顔は……なんていうのか、初めて見た気がするのに、ひどく懐かしい気がした。

志貴 「あ、れ───?琥珀さん、そのリボン……」
琥珀 「はい、確かに返していただきました。
    約束を守ってくださってありがとうございます。それと───」

おかえりなさい、志貴さん。
そう言って、琥珀さんは嬉しそうに。
本当に嬉しそうに笑った。

志貴 「……は───」

ただ、微かに残っている断片。
自分が琥珀さんにリボンを返している場面が、記憶の中に浮かび上がってきた。

志貴 「……うん。ただいま、琥珀さん」

で、『琥珀ちゃん』なんて言った自分が浮かび上がった途端、俺は真っ赤になった。

琥珀 「あら志貴さん、もう琥珀ちゃん、とは呼んでくれないんですか?」
志貴 「──────!」

殺気!
がしゃあん!
ただならぬ殺意を感じて、慌てて体を倒した。
その上をティーカップが飛んでいき、壁に衝突して割れた。

秋葉 「あら、すいません兄さん。滑ってしまいました」

……どのように滑ったら寸分の狂いも無く、
俺の側頭部めがけてモノが飛んでくるのか知りたい。

秋葉 「琥珀、それはどういうことかしら?」
琥珀 「どうもこうもありませんよ秋葉さま。
    志貴さんがわたしをあの大きな木の下に誘拐して、
    それでこのリボンを渡して『ただいま……琥珀ちゃん』って言ったんですよー」
秋葉 「…………」

ジョ○ョならばゴゴゴゴゴ……とか擬音が鳴ってしまいそうな空間がここにある。
記憶を無くした俺はかなりのことをしてしまったらしい。
……いや、純粋にあの少女が琥珀さんだというのなら、
こんな笑顔を見ることが出来てすごく嬉しい。
嬉しいけど……

秋葉 「兄さん、覚悟は出来てますね?」

なんの覚悟でしょうか。
そもそも誤解を解かせてもくれないのでしょうか。
それよりも誘拐以外で誤解があったりするんでしょうか。

志貴 「落ち着け、落ち着くんだ秋葉!
    俺は確かに琥珀さんにリボンを渡したかもしれないが、
    決して誘拐なんてしたとは思えないッッ!」
秋葉 「………」
志貴 「だ、大体記憶を無くしているヤツが誘拐なんて出来ると思うか!?」
秋葉 「兄さんならやりかねません」

うわぁ、何が彼女をこんなに兄不信にしてしまったのでしょう。

翡翠 「愚鈍を、志貴さまです」

そうでしょうね。

秋葉 「安心してください兄さん。少し渇をあたえるだけですから」

真っ赤な髪でそんなこと言われてもーッ!

翡翠 「秋葉さま、志貴さまに危害をくわえるのであれば、わたしも黙っていません」
秋葉 「へえ、どう黙っていないのかしら翡翠」
翡翠 「…………」

黙って犬笛のようなものを出す翡翠。

翡翠 「これを吹きます」
秋葉 「……ふふっ、それがなんだっていうのかしら?」
翡翠 「ひと吹きで1万メートル、埋葬印のエレイシア笛です。
    秋葉さまが志貴さまに危害を加えるようなら迷わず吹けとのことです」
秋葉 「なっ───」
翡翠 「尚、参上する際にもう一名が含まれる可能性は否定出来ません」
秋葉 「………」
翡翠 「………」

ああ、ハンドレットウォータイプ。
誰か助けてくれ……。

琥珀 「秋葉さま、夕食の準備を始めてよろしいでしょうか」
秋葉 「ええ、お願いするわ」

言って、秋葉は余裕の表情で笑った。

秋葉 「翡翠?あまり手間をかけさせないでちょうだい。
    一度逆らった飼い猫に興味は無いの。これ以上逆らうのであれば……」
翡翠 「逆らいではありません。あくまで忠実な主への忠誠です」
秋葉 「へえ、ならいい加減諦めてくれないかしら」
翡翠 「お断りします。志貴さまが戻ってこられた際に秋葉さまが言ったように、
    志貴さまがわたしの主であり、わたしは志貴さまの使用人です。
    志貴さま以外の命令には『良し』と思えない限り承伏できません」
秋葉 「──────」
翡翠 「──────」
琥珀 「まあまあ秋葉さま、紅茶でも飲んで落ち着いてくださいな」
秋葉 「……ふん」

言って、くい……と優雅に紅茶を飲む秋葉。

琥珀 「…………」

気の所為か、琥珀さんの表情がニコニコというかニヤァに変貌したような……。

秋葉 「…………ぐっ───!?な、こ、れは……!?こ、こはっ……く……!!」
琥珀 「ご安心くださいませ秋葉さま。ただの睡眠薬ですから。
    ただ少々暗示効果があって、言われたことを実行してしまうだけですから」
秋葉 「く───」
琥珀 「秋葉さま、秋葉さまはここで起きたことを忘れますよー。はい」

パンッ。
琥珀さんが手を叩く。
途端、秋葉の体がビクンッと動き、ボウとし始めた。

志貴 「だ、大丈夫なのか?」
琥珀 「大丈夫ですよ志貴さん、効果の高いものではありませんから」
翡翠 「姉さん、えげつない」
琥珀 「翡翠ちゃん、もうちょっと相手を見て喧嘩を売らなきゃだめですよー」
翡翠 「……志貴さまの、ためだから」
志貴 「………」

聞いてて恥ずかしいけど嬉しい。

琥珀 「翡翠ちゃんカワイーッ!」

がばぁっ!

翡翠 「あ、ね、姉さん」
琥珀 「かわいーっ!翡翠ちゃんかわいーっ!!」

暴走してる。
こうなると誰にも止められないだろおう。

志貴 「あ……じゃ、じゃあ俺、自分の部屋に戻ってるから……。
    なんかあったら呼んで……」

翡翠が何か言いたそうだったが、琥珀さんの猛攻に成す術なく終わった。

………………
…………








 7/いつか望んだ故郷






チャッ───
自室のドアを開ける。
そして閉めた。
中に入らずに。

志貴 「………」

どうしてだ。
どうしてアルクェイドと先輩が俺のベッドで寝ているんだ。
しかも双方、相手の頬を引っ張ったりつねったりしている状態で。
起こした途端、血を見そうだ。

志貴 「………………………………はぁ」

いろいろ思考を凝らし、中庭に行くことにした。
あそこなら邪魔はされまい。

………………

やってきました、中庭の里。
そろそろ夜になる空は中々綺麗だった。
夏とはいえこんなところで寝ると風邪を引きそうだ。
…………そうだ、離れに行こう。
あそこなら布団もあるしな。

…………

離れにやってきた。
特に何も考えずに中に入り、布団も敷かずに寝転がった。
はぁ……こんな調子で天寿をまっとうすることなんて出来るのだろうか。
未来に不安が残るのも考え物だ。

志貴 「………」

意識が遠ざかる。
最近よく寝るなとか思いながら、意識は混濁していった。

………………
…………
……

───幼い頃、庭は大きな遊び場だった。
幼い俺は幼い四肢を精一杯に動かして、この遊び場を駆け回っていた。
大きく息を吐いて、汗が視界に滲んだとしても、
それは楽しいことの断片にすぎなかった。
後ろから頼りない声が聞こえるたびに俺は足を止めて、
その後ろを必死に駆けてくるあきはに振り向いて笑った。
……それはとても楽しい日常だった。
取り戻せるなら今すぐにでも取り戻したいのに、
どんなに手を伸ばしても、もう二度と戻りえぬものだとわかっていた。
時間は人を変える。
秋葉は俺のことを変わっていないと言うが、それは違うと思う。
大きく分けて、2つの違いが俺にはある。
昔のように無邪気に遊べるかと言ったらそれは違うし、
子供のときのような柔軟な考えは今更だろう。
そして極めつけはこの眼。
どう足掻いてももう元に戻ることなどない、物の死を見る眼。

 みーん、みんみん。
 みーん、みんみん。

記憶の深い場所で過去の物音がするたびに。
ああ、もうあそこには帰れないんだ、と懐かしむように泣く子供の自分がいる。
刺すような暑い日差しの中。
そんな世界から、秋葉や翡翠。
そして、ただの一度も遊べなかった琥珀さんを置いて、俺は───


………………意識が覚醒する。
いつの間に失ったのか。
眠気はとうの昔に無くしてしまったように消え失せていた。
うっすらと重い瞼を開く。

志貴 「………」

穏やかなうつろいを見せて、景色は定まってゆく。
やがて、いままで忘れていたことが思い出された。

───ああ、なんだかんだ言って、ぼくはここに帰ってこれたんだ───

懐かしむように手を伸ばして、そっと触れた。
彼女は驚いたようだったけど、それでもそのままでいてくれて。
それがとても嬉しくて、懐かしくて。
たったひとときでも、俺はあの頃に戻ることができたんだと思う。

…………静かな時間。
やさしい景色に包まれながら。
俺はもう一度、瞼を閉じてみた。

翡翠 「………」

女の子は何も言わず、それを見守っていてくれた。
ただ……その女の子の肩が震えているのに気がついて。
やっぱりぼくらは変わってしまったんだと……涙した。

翡翠 「……志貴さま……?」

強張った表情のままに、翡翠が俺の名前を呼んだ。
変わりすぎてしまった現状。
もう、自分を友達のように思ってくれた少女は居ない。
思い出を振り返って泣くなんてガラじゃないって思った。
でも、思うだけで───溢れる涙が止まることはなかった。
八年は長い。
自分が生きてきた、約半分もの時間。
それがどれだけ自分のまわりを変えてしまったのかなんて考えたくもない。
それでも俺は、その思い出が大事なものだったと頷きたかった。
どれだけ懐かしくても、二度と戻らない時間。
その時間の中にいた自分にさえ取り戻すことの出来ない幼子の頃。
だからこそ思う。


 ───その思い出は一体、

        誰が駆け抜けた思い出だったのだろう───


やがてゆっくりと、景色がうつろいゆく。
季節の流れを思わせるわけじゃなく、あたりの景色が朱から黒に変わるように。
そして俺は、いつか自分が立っていた懐かしいあの頃に手を振った。
別れを告げるんじゃない。
ただいつか、もう一度。
あの頃のように、どんなことでも笑い合えるような時間が訪れますように、と───

 そんな小さな願い事を囁いて、

 ぼくはまた、小さく泣いた……。


───…………
………………








 8/芯丹生者







ゆっくりと、眼を開けた。
その先には既に翡翠の姿はなく、いつの間にか自分は自室のベッドの中に居た。
しかも相変わらず寝巻きの自分。

志貴 「……琥珀さんか」

まいった。
またやってしまったようだ。
自分に頭を痛めながら、とりあえず時間を確認した。
すると深夜もいいところの時間。
……加えて言うと、眠気は皆無。
どうしろというのだろうか。

志貴 「あ、そういえばアルクェイドと先輩はどうしたんだ?」

ふと思う。
まあさすがに帰ったんだろうな。
気にしていても仕方が無い、とりあえず……うん、喉が乾いた。
静かに部屋を出て、台所へと向かう。
一応普段着に着替えるのも忘れていないところをみると、
俺の本能は外への脱出も考えているらしい。
階段を降りて、玄関を開けて。
いざ、なけなしの金で口当たりの良い飲み物を購入しに

スボッ。

志貴 「スボ?」

なにやら妙な音をと感触を覚え、俺は身震いした。
そして耳の中からはガサゴソモシャモショゴソソソソソという聞くに耐えない音が

志貴 「──────ッキャァアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」

恥も外聞も捨てて叫んだ。
なにか、得体の知れないものが耳の中に居る。
しかもそれが結構デカイ。
そして今も尚、奥へ奥へと侵入して

翡翠 「志貴さま!何事ですかっ!?」

俺の悲鳴を聞きつけたのか、
翡翠がジェットエンジンを搭載したスケボーに乗ったかのようにズシャアと参上した。

志貴 「うおっ!ぐおおっ!ウヒョオォッ!!」
翡翠 「し、志貴さま!?」

ああ!翡翠が引いてる!
でも仕方ないんだ翡翠!この耳障りなゴシャアという感触と、
無理に飛翔しようと羽を動かす感触とがゴブブブブってぎゃああああ!!

志貴 「ひ、翡翠!」
翡翠 「は、はい!志貴さま!」
志貴 「みっ!!みみっ!みみみ!」
翡翠 「み……!?」
志貴 「耳掻き……耳掻きを……!!早く……っ!!」
翡翠 「耳掻き、ですね?姉さんが持っていると思います。どうかお気を確かに!」

翡翠が必死の面持ちで駆け出した。
その間にもガサゴソモショと動き回る何か。
いてもたってもいられず、俺は翡翠を追うように駆けようとして

ゴソリ。

志貴 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!」

悶絶した。

だめだ……!体が弾むたびに何者かが反応して暴れる!
は、走れない!

志貴 「ぐお……!くおおっ」

しばらく悶絶するしかなかった。

琥珀 「はいはい志貴さん、お待たせしましたー」

あれ?何故に琥珀さん?

琥珀 「もう、志貴さんたら、
    耳掻きをしてほしいなら言ってくれればよかったんですよー」

……なんですと?

志貴 「いや琥珀さん?俺はただ耳掻きが欲しいと言っただけで……」

ゴソリ。

志貴 「〜〜〜〜〜〜っ!!」

悶絶。

琥珀 「あ、もしかして耳の中に何か入ってます?」
志貴 「…………!!」

必死に頷く。

琥珀 「それなら尚更ですよー」
志貴 「へ?」
琥珀 「もしも志貴さんが何の手掛かりも無しに、
    耳の中に耳掻きを入れたらどうなると思いますか?」
志貴 「え?そりゃあ」

そりゃあ……ゴソゴソやって、アレでコレで……

琥珀 「ヘタに突つくと耳の中が得体の知らない汁で溢れかえりますよー」
志貴 「!!」

ゾクッときた。

志貴 「そ、そんなっ!じゃあどうすれば」
琥珀 「はい、ですからわたしが志貴さんの耳掃除を預からせていただきますねー」
志貴 「なっ……い、いや、それはいろいろとマズイんじゃ……」
琥珀 「嫌でしたら耳の中に殺虫剤でも噴射しますか?」
志貴 「───!」

こ、怖い!琥珀さんが怖い!

琥珀 「安心してくださいな、悪いようにはしませんよ」
志貴 「…………いや、やっぱりそれは」

モサモショゴソカサコソ

志貴 「───お願いします」
琥珀 「はい、承知しました」

くうぅ……情けない……。

………………
…………

琥珀 「痛かったら言ってくださいね、そのお顔を拝見したいですから」
志貴 「ええっ!?」
琥珀 「なんでもありませんよー」
志貴 「…………」

本当に任せて大丈夫なんだろうか。
とか思いながら、既に琥珀さんに膝枕してもらっている自分が情けない。

琥珀 「それじゃあいきますよー」
志貴 「手短にお願いします……」

……ゴソリ。

志貴 「くはぁっ!……は、早く、本当に早くお願いします……」
琥珀 「だめですよ志貴さん。そんなに急いでやって、もし液体が」
志貴 「生々しい話はいいから早くやってくださいっ」
琥珀 「はい、それではいきますよー」

カサッ……コリコリ……。

琥珀 「あー、結構奥の方に行っちゃってますねー」
志貴 「なんとかなりませんか……」
琥珀 「大丈夫ですよ。こういう場合はピンセットで……」

ガサ……ガササササッ!

志貴 「うひぃいいっ!」

足をピンセットで掴まれた虫が暴れだした。
正直、気持ち悪い。
やがてパツッという音が聞こえた。

琥珀 「あ、足が取れちゃいました」
志貴 「ひぃっ!」
琥珀 「でも安心してくださいね志貴さん。
    その甲斐あってか、もうすぐ手前まで来ていますから」

ガサガサ……スポッ。

琥珀 「はい、取れましたよー」
志貴 「は、はぁ……」

安堵の溜め息が出た。
まったく、一時はどうなることかと……

志貴 「ありがとう琥珀さ」

───あれ?

琥珀 「だめですよー、志貴さん。まだ耳の掃除が済んでませんよ」
志貴 「えっ?だって俺、ただ虫を取ってほしかっただけで」
琥珀 「だってもビオランテもないです。いいから抵抗しないで寝ていてくださいな」
志貴 「あー、でもちょっと、琥珀さんっ」

ビオランテってなにさ。

琥珀 「はい、動くと危ないですよー」

カサ……

志貴 「うっ……」
琥珀 「あはー、志貴さん、耳は弱いほうですか?」
志貴 「あ、あのですねっ」
琥珀 「はい、動かないでくださいね」
志貴 「うぅ……」

まいった。
逃げられない……。

琥珀 「男らしく観念しちゃってくださいね。すぐに済ませますから」
志貴 「……わかりました、お願いします」
琥珀 「はい、志貴さん」

カリカリ……カサ、ズズッ……

琥珀 「気持ちいいですかー?」
志貴 「あ……うん、気持ちいい、かな……」
琥珀 「光栄ですね、それじゃあ……」

ワサッ。

志貴 「うわっ!」
琥珀 「あ、暴れると危ないですよー」
志貴 「こ、琥珀さんっ!それやる時はひとこと言ってからで……!」
琥珀 「これが一番気持ちいいんじゃないですか」
志貴 「………」

なんのことはない。
反対側の毛玉でワサワサと掻きまわされただけだ。

琥珀 「それでは志貴さん、反対側もやってしまいましょうか」
志貴 「いやっ……じ、自分で出来るからっ!」
琥珀 「だめですよ。
    自分では見えない部分は、無理にやろうとすると傷ついてしまうんです。
    そういうのが一番困るんですよー」
志貴 「う……あ、そうだ、翡翠はどうしたんだ?」

とりあえず話を濁して逃走を

琥珀 「翡翠ちゃんならさっきからそこに」
志貴 「えぇっ!?」

がばぁっ!と起き上がる。

翡翠 「…………」

振り向いてみれば、顔を赤く染めてもじもじしている翡翠サン。
な、なんて───愚か。
向きの違いの所為で、翡翠の存在を確定出来ていなかった……!

琥珀 「あ、もしかして志貴さん、翡翠ちゃんに耳掻きしてほしかったんですかー?」
志貴 「なっ……!そうじゃないでしょう!?俺は純粋に虫を取り除きたくて!」
翡翠 「…………」
志貴 「ひ、翡翠?」
翡翠 「姉さん、……て……」
琥珀 「え?なにかな翡翠ちゃん」
翡翠 「…………」

真っ赤になりながら何かを呟いている。
翡翠なりに必死なんだろうけど、声が聞き取れなかったりする。

翡翠 「耳掻きを……か、かし……」
琥珀 「案山子ですか?」
志貴 「琥珀さん、カカシはベタだ」
翡翠 「…………っ」
琥珀 「あ」

翡翠が琥珀さんの手から耳掻きを奪った。
そして場所を奪い、俺の頭を膝に乗せて、真っ赤な顔でゴクリと喉を鳴らした。

志貴 「あ、の……ひ、翡翠?」
翡翠 「失礼、します……志貴さま……」
志貴 「え?あ、ああ……」

何故だろう。
なにやらもの凄く嫌な予感と、ゴゴゴゴゴ……という擬音が頭から離れない。
───待て。
翡翠は男性に触れるのも触れられるのも嫌な筈だ。
なら……!

志貴 「ひ、翡翠!やっぱりいいからっ!」

慌てて起きあがろうとする。

翡翠 「……っ!」
志貴 「え───?」

起きあがろうとした俺の頭は、翡翠に抱かれていた。

志貴 「ひ、すい……?」
翡翠 「大丈夫、ですから……どうか、動かないでください……」
志貴 「……翡翠、そんな震える声で言われたらそんなこと……」

ドスッ。

志貴 「くほっ」
琥珀 「志貴さん、翡翠ちゃんの献身を無駄にしないでください」
志貴 「そんな、だって琥珀さん……」
琥珀 「やらせてあげてください、志貴さん」
志貴 「………」
翡翠 「志貴さま……」
志貴 「……はぁ。無理はするなよ、翡翠。
    無理してもらったって俺は嬉しくないからな……」
翡翠 「……はい、志貴さま……」

…………

琥珀 「それでは、わたしはそろそろ見回りに戻りますね」
志貴 「え?あ、はぁ」
琥珀 「翡翠ちゃんファイトー」
翡翠 「ね、姉さんっ」

笑いながら、琥珀さんは姿を消した。

志貴 「………」
翡翠 「………」

自然と会話が途切れた。
でも居心地の悪いものじゃなくて、むしろ心地良かった。

翡翠 「……それでは、失礼します」
志貴 「……うん、お願いする」

小さく息を呑む音を聞いた。
やがて強張った緊張のもと、翡翠が俺の耳の中の掃除に取りかかった。

───ドスッ。

志貴 「ぎゃあああああああああああああああああああっ!!!!!!」
翡翠 「……!あ、ああああ……あぁあああっ……」

料理などの点を踏まえて、
翡翠は手先が不器用だったってことを視野に納めておくべきだった。
ものの見事に耳の奥を突いた耳掻きには真っ赤な鮮血。
言うまでもなく、俺の血だ。
耳掻きは緊張しながらやるものじゃないと、つくづく思い知った。
ギャグ漫画などなら思いっきり血が噴出しているところだ。
なんてことを冷静に分析していると───

どたたたたたたたたたたたたたっ!!

と、物凄い勢いで居間へと向かってくる足音を耳にした。

秋葉 「兄さん!何事ですかっ!?」

秋葉が現れた。
ていうか何故に第一回目の悲鳴で現れなかったのかが不思議だ。
ああ、そんなことよりも今は───

秋葉 「………」
翡翠 「あ……あ、ああ……」
志貴 「………」

この状況をなんとかしないとなぁ。
ちなみに今の現状といったらヒドイものである。
まずひとつ。
俺は翡翠に膝枕をしてもらっている。
その俺自身がビクンビクンと痙攣しているのは、秋葉ならきっと無視するだろう。
そしてふたつ。
その翡翠が体を小刻みに震わせながら、涙目になっている。
秋葉から見れば、男性恐怖症の翡翠に無理矢理膝枕させてもらっているとしか映らない。
そして極めつけ。
秋葉の髪の毛がザワザワと揺れて、朱みを帯びてゆく。
ああ、誤解なんだ秋葉。
加害者の俺が『ぎゃああ』とか叫ぶわけないだろう?
なんて言っても、きっと無駄だと思う。
なにせ相手があの秋葉だ。

秋葉 「………」

秋葉が無言のままに跳躍した。
その高さたるや、人間技じゃない。

秋葉 「妹ニードロップゥウウウゥゥゥッ!!」

ドグシャアァッ!!

志貴 「ぐはぁぁああああああぁぁぁぁぁッ!!」

脇腹が軋んだ。
意思とは関係なく浮き上がる足が、その威力を教えている。
口から内臓が飛び出るかと思うほどのこの威力、まさに国宝級である。

志貴 「あ───か、は───」

肺に残っていた酸素が搾り出される感覚。
いや、それよりも上回る疑問がある。

志貴 「あ、秋葉……他のみんなより重力の低いお前がどうしてこのような威力を」

ドス!!

志貴 「ごはっ!」

トドメだった。
怒りの一本拳を人中にくらい、俺はオチた。
ああ、禁句だってわかってたさ───

…………
……









 9/簀巻く躯







───朝の直射日光で目が醒めた。

志貴 「ん───」

ゆっくりと体を起こして、……あれ?

志貴 「………………」

マジックショーッ!

志貴 「って、どうして簀巻きにされてるんでしょうかーっ!?」

目覚めてみれば、俺は茣蓙に包まれたのちにロープでぐるぐる巻きにされていた。
あ、でも結構温かいや。
保温効果抜群じゃないか。
家出して野宿することになったらまたやろう。

志貴 「って、そうじゃなくて!」

もしかして気絶してからずっとこうだったんでしょうか?
風邪を引かなかったのが不思議なくらいだ。
くそう、妹ながらなんてヒドイことを。

志貴 「……そうだ、京都へ行こう───」

現実逃避発動。
今なら春巻になってでも逃げ出せる覚悟がある。
さあ、旅立とう。
この簀巻きの姿で───

志貴 「………」

なんだかすっごく泣きたくなった。
まあいい。
転がって逃走を図ろう。
ごろごろごろ……と。
ドスッ。

志貴 「う?」

……しまった。
この門のことを忘れていた。
翡翠に頼んで開けてもらうわけにもいかないし……

志貴 「そうだ、レン。レン?いるか?」

声を小さくあげてみる。
するとどこからともなく、ちりん、という鈴の音。

志貴 「レン、悪いんだけどこの門を開けてくれないか?」
レン 「………」

俺の言葉に素直に頷き、人型になるレン。
そして門に手をかけて───

レン 「…………、……っ!…………っ!」

必死になって押す。

志貴 「………」

なんだか自分がいじめている気分になってきた。
頑張ってくれているんだが、どうにも体躯の問題か、門はちっとも開かない。

志貴 「あ、やっぱりいい。これほどいてくれれば」
レン 「…………」

…………

レン 「……、…………、…………」

レンは頑張っている。
しかしよっぽど強い結び目なのか、苦戦しているようだ。

志貴 「が、頑張れ、レン……」
レン 「…………」

こくこくと頷く。
やがてゆっくりと、縄はほどけた。

志貴 「……ああ、開放感……」

そう、物凄い開放感。
俺を見て、レンが少し赤くなるほどに。

志貴 「って!なんで裸なんだよ!」

簀巻き用の茣蓙を腰に巻いて、俺は屋敷に駆け寄った。
どうもこうもない。
服を取り戻さなきゃいけない。
しかしだ。
もしこんな格好を秋葉や翡翠や琥珀さんに見られたら───
次こそ、ネリチャギやニードロップでは済まない気がする。
いや、そもそも俺を裸にして簀巻きにしたのは誰なんだ。
そりゃあ、実行犯は琥珀さんしか居ないだろうけど。

志貴 「……レン、また頼んでいいかな。俺の服を取ってきてほしいんだ……」
レン 「…………」

またも、素直に頷いてくれる。
チャッ……と玄関を開ける。
幸いなことに鍵はかかってなかった。
小さな隙間からレンが侵入するのを見届けると、俺は一息ついた。

…………
……

レンが持ってきてくれた服を装着して、ようやく一息。

志貴 「ありがとうな、レン」
レン 「…………」

感謝の気持ちに頭を撫でた。
相変わらず無表情な顔だったけど、微妙に嬉しそうだった。
で、手を離すと寂しそうな顔をする。

志貴 「…………大丈夫、どこにも行きやしないよ」
レン 「…………」
志貴 「じゃ、行くか」
レン 「…………」

こくん、と頷く。
猫型になったレンは俺の肩に登り、落ち着いた。

志貴 「さてと」

門を開けて、いざ外界へ!
───ちなみに茣蓙は丁寧に持っていたりする。
さーてと、みんなが起きる前に行動を終わらせないとな。

…………
……

その後。

秋葉 「兄さん?頭は冷えましたか?」

転がっていた簀巻きに向かって、頭首が語りかける。
………………返事が無い、ただの屍のようだ。

秋葉 「……兄さん?」

少し怖くなって、頭首はその顔を覗いた。

秋葉 「なっ───」

そこで簀巻きってたのは赤裸々白書日本代表の乾有彦くんだった。

秋葉 「チッ───小癪な真似を───ッ!」

ご丁寧に気絶しているところを見ると、深い一撃をくらったらしい。
案外、一番の被害者だったりする。

………………



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