173/誤解の日々が反抗期として清算されたのち、ファザコンが生まれた。そんな日々。ただし思いが届くとは限らない。 -_-/北郷かずピー カサモショと音が鳴る。 なんの音か? 多分、髪とかが擦れる音じゃないか? なにと擦れているか? ……紙袋だろ。 「…………《む〜〜〜〜ん……》」 「あの……ご主人様? それは一体……」 戻ってきた翌日のことである。 昨日は呉で起きたことなどを纏めて華琳に報告、冥琳や朱里や雛里を伴ってのこれからの方針などの相談をして一日が潰れた。……魏方面からは桂花も居たが、俺のことを睨むばっかりでまともに聞いてたかどうか。……聞いてただろうなぁ、仕事はきちんとするし。 で、その翌日の朝。 何があったのか、朝から我が自室を訪ねてきた紫苑の前に、ソレは居た。 剣道着、剣道袴を着た上、紙袋を頭に被った男。 長方形の穴を目元に誂え、額に輝くは校務の二文字。 動くたびに髪と紙袋がこすれ合い、カサモショと鳴る存在……名を校務仮面といった。 まあその、なんだ。ノックして了承を得て中に入ってみれば相手がコレなら、紫苑の驚きも当然のものだろう。 ならば、“それは一体”という質問。どう返すべきだろう。 「…………、…………、───!《テコーン♪》」 しばらくゆらゆら揺れながら思考……そして閃いた。……おまけに奇妙な動きとして、若干紫苑に引かれてた。大丈夫、校務仮面は挫けない。 「やあ! 初めましてお嬢さん! 私は校務仮面。学校の整備に命を燃やす、己の中に存在する正義のみの味方さっ!」 「あら、あらあらうふふふふ、ご主人様ったら」 「あれ? や……違うぞ? 俺ご主人様とかそういうのじゃなくて校務仮面で……あの……聞いてないね?」 お嬢さんって言ったあたりから、なんかもう全てを許しますって笑顔を向けられた。 その顔はまるで、息子の悪戯を“仕方のない子ねぇ”と笑って済ます懐深き親のよう。 ……あ、あれー? 俺っていつ、悪戯なんかしたっけー……。 「それで? どういった結果を求めているのですか?」 「別に。変装でもしてれば、子供たちも蹴るために寄ってこないだろって、そんなとこ」 子離れするなら、元の姿で蹴られる必要もない。 だったら変装しかないだろう。 子供たちに校務仮面姿を見せたことなど一度もない。 だったら、きっと華蝶仮面みたいな不思議な効果でバレやしないに違いない。 いや、ほんと……あれってなんで、どうしてバレないんだろうな……。 「……報告で仰っていたそうですけど……。子供を構うことから離れ、鍛錬に励むと」 「ん、本気だ。詳しくは言えないし、言っても解って……もらえるかもだけど、ショック……ああいやいや、衝撃とか大きすぎて、未来に希望が持てなくなりそうだから言えないんだけどさ」 頭を掻こうとしてら紙袋に邪魔された。……気にしません。 「……どうしても、やらなきゃいけないことが出来たんだ。だから、そのためには強くならなきゃいけない。幸いなのか不幸なのか、子供たちはとっくに親離れしているみたいだからさ。あとは俺が離れれば済むことだよ」 「それは、どうしてもそうしなければいけないことですか?」 「目指す場所は“どうしても”だ。これだけは譲れない。で、どうしてもがついているなら精一杯やらなきゃ後悔する。中途半端にやって、もし届かなかったらと思うと、俺はその時の俺を自分で殺したくなる」 なんとかなると思った先で潰れたら、結局俺は手を抜いて、否定を認めたことになるのだろう。力が及ばなかった。ダメだった。それはどうして? 全力を出し切った。ああそうだろうな、その時点での俺は全力を出した。ただしそこに到るまでの時間、俺は全力ではなかった。そこについてくる結果なんて、それに見合ったもの以上などありはしないのだ。仮にそれ以上が手に入っても……きっとそれは、手に余る。 「というわけで、朝食食べたら鍛錬だ。もう人目を気にすることなく思いっきりやる。大体不規則な生活の中で鍛錬したって、まともな効果が得られるかっていったら……氣に関しては難しいけど、筋肉側で見れば得られるわけがなかったんだよなー。……筋肉成長しないけどね」 自分をからかうように笑って言葉を放って、それで終わり。 さて。 また今日も、一日が始まる。 せいぜい後悔しないように。後悔すると決まっていても、後悔の幅が……最果ての自分が気づかないくらいに幅の狭いものであれるよう、努力をしよう。 ……もう、娘の蹴りを気にして振り向くこともないのだから。 ───……。 …………うん。 蹴りは気にしなかったよな。蹴りは。 べつに殴られたわけじゃないし、膝かっくんとかの嫌がらせを受けたわけでもない。 ないんだが…… 「……! ……!!《ぱぁあああああああっ!!!》」 「………《じとぉおおおお……》」 「………」 この、瞳を太陽のように眩しく輝かせているお子めらの身に、いったいなにが起きたのでせうか。 朝食を食して中庭に出て……鍛錬。そこまではいい。 しかしそこへやってきたのは孫登と甘述であり、まずは俺を見てから首を傾げ……次いで、この校務仮面の額に刻まれた校務の文字を見て停止。 ……その停止のあとに、そろりそろりと近づいてきて……急にガッと服を掴んだかと思うと、人を見上げてこの瞳である。登は輝く瞳で、述はじと目だ。……え、なんで? (な、なんだ? いったい何が起こってるんだ!? 俺……なにかしたっけ!? いやいやっ、俺娘たちの前でこんな格好したことない!) あ、あー! もしかして人違いかなにかか!? 「あ、あのっ! ご無礼を承知でお訊ねします! あなた様はもしや……こ、こここ、校務仮面さまでいらっしゃいますのでしょうか……!?」 なんで名前まで知ってるの!? 俺教えた記憶がないんですが!? しかし訊かれたのならば答えよう! 校務仮面は紳士なのだ! 「校務仮面だ」 だが決して慌ててはならない。丁寧な対応をしましょう。 校務仮面が焦る瞬間は、正体がバレそうになった時だけでいい。 などと綺麗な礼をしてみせた瞬間、述が校務仮面の命である紙袋へと手を伸ばしてきた。ええ、もちろん素早く躱しました。 「貴様! 礼をするというのにそのおかしな被り物を取らんとは!」 するとムキーと怒ってくる述。 ……マテ、本当になんだ? 何故娘らに襲われないようにと被った校務仮面が、こうも相手の興味を引いてしまうのだ? ……やはり仮面から滲み出る紳士性の所為だろうか。さすがだな、校務仮面。“俺”ではこうはいかない。 「いかん! 校務仮面の正体は絶対に秘密なのだ!」 が、紳士性が素晴らしいからといって、正体を教えるわけにはいかない。 理由は口にした通りだ。なんで、ではなく、校務仮面だから秘密なのだ。 他の答えなどない。 1+1の答えに疑問を持つ子供などいない。理解してしまえば、受け入れてしまえばそれが当然であるように、校務仮面の正体は絶対に秘密なのだ。 ……なのだけれど、そんな俺の態度にイラッときたのか、述がまるで春蘭のように“なにぃ!? 貴様ぁ!”と言いそうな目でこちらを睨んでくるわけで。やがてその口から似たような言葉が出るかも、と身構えたところで、 「述。失礼だろう」 動きを見せようとした述に、登が待ったをかけた。 途端にしゅんとする述は……なんといえばいいのか。 いや、今は娘達との会話に時間を割いている暇はないはずだ。もっと頑張らなきゃいけない時なんだ。 決意を新たに、行動を起こそうとすると、述が俺を睨みながら拳をギリ……と握り締めた。そんな述を再び止める登。 「なにをするつもりかは解らないでもないが、やめておけ。私達ではどう足掻いても敵わぬ相手だ」 …………あれ? ちょっと待て。何をどう見たらそんな言葉が出るんだ? 「校務仮面さまは凄いんだぞっ。雨が降れば空にある曇天を拳から放つ氣で吹き飛ばし、泣く子が居れば一瞬で笑わせて、怪我をした者が居れば一瞬で治してっ!」 まてまてまてまてあなた一体どんな幻想を見ているので!? え!? 曇天を氣で!? 泣いた子供や怪我した人をほうっておけないとは思うけど、曇天は無理だろオイ! 「なっ……子高姉さま、それは本当なのですか!?」 「ああっ! こう、氣で風を巻き込むようにして、天に昇る渦のような強い氣で雲を吹き飛ばすんだ!」 孫登さん!? あなたにいったいなにが起きたので!? 出来ないよそんなこと! 氣で冷気とかを作れるようになったならまだ多少は出来るかもだけど、少なくとも人力竜巻とか無理だよ!? 「……しょ、少女よ。この校務仮面のこと、誰から聞いたのだ?」 解らないなら訊いてみる。これ、人間の知恵。 「は、はいっ! 伯珪さまですっ!」 白蓮さぁあああああん!!? あなたいったいこの子になにを吹き込んだので!? 誇張するにしてもやりすぎだろこれ! なんかおかしいと思ったら、これって憧れの眼差しってやつだよ! つい最近見たなぁとか思って当然だった! 呉で散々とあの女官にこんな目を向けられたもの! 「…………すまないが、校務仮面はこれから鍛錬があるんだ。だから相手をすることは出来ない」 「目で見て盗めということですね!?《ぱあああっ……!》」 「人の話を聞こう!?」 あああああもうほんとにこの世界の住人だなぁって、すごい実感が湧く返事だよ! なんでこうこの地で育まれた生命は、人の話を聞いてくださらんのか! あ、あー……いや、なんかもうそれでいいか。相手しなければ自然と飽きるだろうし。 「……くれぐれも、邪魔だけはしてくれるな」 「はいっ!」 「…………ふんっ、どうせそこいらの男らと一緒で、大したことなどないに違いない」 前略おじいさま……娘が、登が、子高が物凄く素直です……! 憧れの目で、この父めを見てくださいます……! でもここで折れてしまえば、自分のことへの集中を外してしまえば、きっと先の未来で後悔することになるのだろうから。 鬼になれ、一刀。折れずに、未来を目指す無二の刀となれ。 ……。 そうして、鍛錬は始まった。 開いた孔から湧き出る氣を、身体に馴染ませるために基本に戻っての城壁ダッシュ。 (右左右左右左右左右左右左右左右左……!!) 「へっ!? ふえっ!? は、はや……!?」 「え、え……? ばかな! おとっ、男があんなに速く……!?」 最初は肉体のみのダッシュで一周。次に氣を込めて走ると、景色の流れが一気に加速。 氣を使っての“普通のダッシュ”で一周を終えると、次は氣での加速ダッシュを実践。 一歩の度に石畳を蹴る足が氣で弾かれるように持ち上がり、一歩一歩のたびに速度が上昇。 「す、すごい……! 凄い凄い! ほらっ、述っ! 校務仮面さまはすごいっ!」 「なななななにかの間違いです! 男が! 男がぁあ!!」 加速ダッシュが終わると、次は氣を使い分けてのダッシュ。 氣を纏わせた自分の身体を前へと飛ばすイメージと、地面を蹴り弾く足を氣で加速させて、走るというより前方に吹き飛ぶように進む。武器の重さを軽くさせる氣の使い方の応用だ。 ここまでくると紙袋が鼻とか口を塞いで、かなり苦しいですハイ。 「……ふっ!《ドォオオーーーン!!》」 「はうっ!? 座ったままの姿勢で跳躍を!?」 「そんな……人はあんなに高く飛べるのか!?」 さらに応用。 自分の重さを氣で無理矢理軽減させた状態……このまま地面を思い切り蹴って跳ぶと、体が面白いように宙に跳ぶ。 散々と様々な将に吹き飛ばされながら編み出した、落下ダメージを軽減させる氣の応用がここで役に立った。うん、まあつまりは落ちた時に自分の体重がダメージに繋がらないよう、身体を氣で持ち上げるイメージを……その、増量した氣を以って全力で軽減した先の…………技術って言えるのか? これ。 人間の体重を軽くするほどの氣となると、結構使うわけだが……まあ放つわけじゃないから消費はないけど、疲労がないわけじゃない。 (そういえば……) 身体を軽くする氣、軽功っていうのがあったのを思い出す。 切っ掛けは漫画で、スプリガンってやつだったが……あれは凄かったな。 人の身体で葉っぱの上に乗っても落ちないとか、そんなのだった気がする。 それを思い出してから実践をしてみたが、まあ……軽くすることは成功した。 うん、空を飛ぶなんてことは出来ないが、軽功本来の“身体を軽くする”、“高く跳ねたりする”、“速く走ったりする”ということは成功しているのだ。 なにかひとつを修めるっていうのは大変なことだ。 俺の場合、身体を鍛えられないから氣に集中することが出来たって部分が大きい。 もひとつ言えば、修めたとはいっても完璧じゃないので、ただ使えるってだけだ。 応用さえも極められれば、きっともっと……面白いことになりそうだ。 (……勝つとか殺すとか、そんな物騒なことじゃなくてさ。結果的にはそうなるにしても、尖った心じゃなくて……) 焦りばかりじゃなくて、どうせこの身体に叩き込むなら、楽しみながら叩き込みたい。 肯定を目的に進むなら、ギスギスしたのは違うと思うんだ。 「ほっ!《ダンッ!》」 「ふわ……こんな高いところから落ちたのに、普通に走ってる……!」 「……す、すごい……すごいすごいっ! 子高姉さまっ、彼は何者なのですかっ!?」 「もちろん校務仮面さまだっ!《どーーーん!》」 娘らがなにやら興奮しているが、自分のことに集中しよう。 城壁から中庭へ飛び降りて、衝撃は化勁で逃がし、そのまま走る。東屋までの距離を走る勢いそのままに地面を蹴って、軽功を使って跳躍。東屋の屋根に一気に飛び乗ると、そこから少し走ってさらに跳躍。強引に木に飛び移ると、さらに跳躍して城壁を蹴ってさらに跳躍、上まで上ることに成功。 随分前にやった借り物競争の際、思春がやっていたことを思い出してのことだったんだが……出来るようになった自分が嬉しい。やばい、これは表情が緩む。紙袋のお陰でバレることはないから、盛大にニヤケながら続けるわけだが。 (よし……いい感じ。集中集中……!) そうして、準備運動の時間は続いた。 娘達が慌てて追ってくることに気づいても、心を鬼にして自分のやることに集中して。 ……。 やがて準備運動が終わる。 「すぅ……はぁ……───んっ。よしっ」 「かっ……っ…………ひゅっ……は、ひゅっ……!」 「はー! はー! かはっ……、うぶっ……げっほ! ごほっ! あ、うぅう……!」 汗は掻いても呼吸は乱さない。 そんな調子で鍛え続けた8年……それは確実に自分の体に染み付いていっていた。 お陰で紙袋は湿っても、身体はとても元気だ。 ……娘たちが呼吸困難状態っぽいが………………エ、エエト、無理するなとか言うくらい、イイカナ。イイヨネ? ネ!? (い、いやっ! 離れるって決めただろっ! むしろここで俺が手を貸したら、自分が自分で娘達を“俺の鍛錬の時間を邪魔する者”に仕立て上げることになるじゃないか!) それはダメだ。 そんなのは言い訳にもなりゃしない。 だから鬼になれ。 自分に集中しろ。集中を……! 「……《……ィイン……》」 集中。 自分の氣の動きにのみ思考を働かせるようにして、手甲をつけた両の拳をギュッと握る。まだ爪が生えてきてないから、握り締めるだけでもとんでもなく痛いんだが……それは氣で誤魔化してやっている。 素直に気絶だけしていればいいのに、どうして寝巻きを引っ掻いたりするかなぁ。お陰で寝る時と起きる時が辛くて。手を氣で保護しながら寝るのって集中力がいるし、集中すると眠りづらいし。朝起きると当然氣なんて纏ってないから起きた瞬間物凄く痛いし。 さすがに華佗でも爪を瞬時に伸ばすような芸当は無理だろうなぁ…………う、ううん? あれ? 人命蘇生と爪を生やすのって、どっちが凄いんだ? あれ? 「……《スッ》」 疑問に首を傾げると同時に、無駄に入っていた力を抜く。 痛いからって強く握り締めて誤魔化す、というのもいいかもだが、それで殴れば悪化するだけだろう。なにより“当てるため”に速度を出すなら脱力だ。 握りこまなければ殴っても意味は無いかもしれないが、硬さは手甲でもう間に合っている。なら、あとは相手に届かす速さがあればそれでいい。 手は軽く……握るまでいかない程度で。グラップラーなアレのように菩薩の拳をしろとは言わないから、ともかく拳ではなく手甲を当てるつもりで。 「、シッ!」 脱力から加速、正拳。 右が終われば左。左が終われば右。 関節にかかる負担を氣で受け止め、拳の加速に利用する。 そうすることで拳を突き出す速さは増してゆき……まあ、あれだ。拳を下げた時に背中の筋や骨にぶつかった際、氣で地面を蹴り弾く要領で拳を前に突き出しているのだ。 当然、衝撃が蓄積されて、弾く威力が上がるたびに速度は増してゆく。 ……まあ、次第に筋が耐えられなくなって中断になるのだが……ならばその筋も氣で守ってくれようと、以前より多くの箇所から湧き出る氣を思う様に使い、拳を振り続けた。 結果。 「《パァンッ! ズキィーーーーン!!》─────────!!!」 ギャアーーーッと叫びたくなるほどの激痛が右腕に! 何事かと言って焦ることでもないのだが……筋は守られていた。衝撃対策はバッチリだ。 でも衝撃は吸収出来ても、伸縮する肩の皮とか骨は、人体である以上どんだけ気を使ってて痛めてしまうときはあるわけで。つまりは氣を緩衝剤に使っていようが、急に伸びた筋とか皮は痛いです。 「……、……、……!」 痛い。が、冷静に癒しの氣を以って鎮めてゆく。 呉から戻ってくる間、盗賊山賊に遭うこともなくのんびりと休憩できたお陰で、氣脈も随分と癒えてくれた。 完全とは言わないまでも、親父が“いいからおめぇはたまにはゆっくり休め”と何もさせてくれなかったこともあって、本当に、本当〜に久しぶりに何もせず過ごす毎日を生きた。 “するとどうだろう”って言いたくなるような変化があったのは、つい先日だ。 どれだけ疲れていたのか、“休んでいいんだ”って意識が身体全体を包んだ途端、すとんと気絶するように眠った俺は、呆れるくらいの時間を眠った。もちろん食事とかの際には親父に起こされて、邑で食べたり適当な川で魚を捕ったりで食べた。けど、それ以外はほぼ眠っていた。 「すぅうう…………はぁあああ……」 起きると氣脈に澱みがないか、穿った点穴は塞がっていないかを必ず調べて、おまけに自分の体の中の氣の流れ方を落ち着いて見てみることも続けた。 軽功とかを頭の中で構想したのもその時だ。 漫画で見た知識ではあるものの、たかが漫画と侮るなかれ。“そういうことだって出来るかも”は、可能性を広げる大切な鍵だ。なんでも試してみて、本当にダメそうだったら諦めればいい。やらずに諦めるのはもったいないのだ。 だって、せっかく氣ってものが本当に存在するんだ。やらずに鼻で笑うのは本当に、もったいない。 「……、……」 さて。ダッシュはしたものの、体を伸ばすストレッチはしていなかったことを思い出して、柔軟を開始。 むしろ柔軟からやるべきだった。反省。 「……う、うぅうぇぅ……」 「あぁあうぅう……」 少女二人がゾンビのような声を出しながらも、真似ようとのろのろと動き出す。 声は……やっぱりかけない。 軽い自己嫌悪めいた気分に襲われてしまうが、歯を食い縛って我慢する。 そんな俺をよそに、軽い溜め息をつきながらも二人に水を飲ませる姿があった。……白蓮だ。 「………」 「───」 白蓮は“不器用なやつだなぁ”なんて目で俺を見たあとに、目が合うと肩をすくめて苦笑。 俺は感謝の意を込めて軽く頭を下げてから、鍛錬を続行した。 そして白蓮さん。あとで校務仮面について、いろいろ訊かせてもらいますんで。 -_-/曹丕 ………………。………………。 「…………《ぽー…………ハッ!?》」 呆然としていた頭を振って、もう一度彼の鍛錬する姿を見た。 柱の影に隠れて、そっと。 「………」 妙な紙袋を被っているけど、どこをどう見ても父だった。 校務仮面とか言っていたけど、どこをどう見ても父だった。 むしろ気づかない登と述がどうかしている。 ……もちろん、私も興味が無いままだったら気づこうともしなかったかもしれない。 「わぁあ……」 現在、見慣れない服(あとで伯珪に訊いたら、剣道着と剣道袴というらしい)で鍛錬を続ける、紙袋を被った父は……物凄い速度で両の拳を交互に前に突き出している。 最初の音は凄かった。パンッて鳴った。試しに同じ構えで拳を振るっても、そんな音は鳴らなかった。(あとで伯珪に訊いたら、衣服同士が翻った拍子にぶつかっただけらしい) 「………」 幾度か拳を突き出すと、唐突に身体を伸ばす運動を始める、とと……ち、父。 じっと見つめていると、どうやら伸ばした箇所に氣を集めているらしいことが解った。 それがどういう効果があるのかは……鍛錬法にも書いてあったけれど、よく解らない。 そうするといい、ということしか解らなかったのだ。 美羽に言われて私もやったことはあるけれど、あれは結構辛い。身体を伸ばすことと氣を使うこと、しかも氣は一箇所に集中しなければいけないし、伸ばす箇所が増えればその分を分けて集中させなければいけない。 ……ただ、あれを続けていると、氣を切り離して使うことを身体が覚えてくれるから、出来るならやったほうがいいとは思う。……あれ? これがあの鍛錬をする意味なのかな。…………なのかしら。 「……あれ?」 しかし、ふと気になったことがある。 どうして今日は夜中に鍛錬をしなかったのか。 鍛錬見たさに夜更かししてしまった自分に呆れた上、お陰で少し寝不足だ。 けれど見たかったのだ、仕方が無い。 どうして急にそっけなくなってしまったのかは解らないし……ただ、可愛くない子供たちに愛想が尽きただけの話なのかもしれない。知ることが出来るのなら知りたい。知って、そこから仲直りをしたい。 酷い掌返しだけれど、それでもまた、私は……あの頃の、“楽しい”を知っていた自分に戻りたい。 具体的に言うと構ってほしい。 自分から勝手に離れたくせに、どうやら私の中には父親に甘えたいという厄介な心が、あの頃からずっと溜まってしまっていたようだ。 父の行動の真似をしてみるだけで、頬が緩む。 (えと。こうして、こうして……こう) 足を前後に開いて、拳を腰に溜めて、後ろに下げた足の爪先から回転を始める。 その回転の速度が死なないように足から腰、腰から肩……と連続で回転させて、最後に拳。 ひゅっ、と突き出した頃には、とんでもなく緊張していたらしい私は……たった一回の突きだけで汗を垂らし、ふっふっと息を弾ませて…………顔をとろけさせた。 むず痒い。 あの人は私の父なんだと誰かに言いふらしたいような、妙な気分。 大事なことをそっちのけで、偉大であった父の姿に足をぱたぱたさせた。こう、素早く足踏みするみたいに。……そんな時、丁度傍を歩く兵に、とろける顔と足のぱたぱたを見られた。 「はうぅっ!?《ビクーーーン!!》」 「あ、や……その。…………し、失礼しました」 ぺこりと頭を下げ、歩いてゆく兵。 驚いたままの格好で固まり、たぶん真っ赤であろう私。 ……あ、あれ……? なんだか死にたくなってきた。なんだこれ。 恥ずかしいとかそういうのではなく、なんかこう…………死にたい。 「…………落ち着きなさい、私」 そう、まずは落ち着こう。 そうよ、まずは大事なこと。 ……私はまだ、誤解していたことを父に謝れていない。 いえあの、ごごご誤魔化しとかそんなのじゃなくて、謝れていないのは事実で。ええと。はうぅ。 「………」 再びちらりと見る。 昨日はずっと母さまと話していたようだし、私は全然、まったく、話す機会さえなかった。 話そうって意味も込めて夜中に待っていたのに、結局鍛錬はしなかったようだし。 とにかく謝るんだ。謝って、許してもらえるまで何度でも機会を作る。 ……あの人は、私にどんな暴言を吐かれたって小ばかにされたって、諦めずに語りかけてくれた。 (今度は私の番なんだ) 頑張ろう。もちろん仕事優先だけれど。 誰かひとりにかまけて、大事な仕事を手付かずにする、なんていう尊厳を冒すことはしないわ。 そう……母と、そして父の娘として高く在れ、曹子桓。 親と比較され続けるのは、正直に言ってしまえば“重い”。 自分の中の理想の先を往く曹孟徳という存在は、どれだけ手を伸ばしても届かないという雲の上の存在だ。 なのに、そんな存在がもう一人だ。 昨日、構ってもらえなかった時間を使って倉に入り浸った。当然、父さまの書簡竹簡を見るためだ。 見れば見るほど素晴らしかった。私なんてまだまだ未熟だと知った。 “大人と呼べる年齢でもない子供に、そこまでを願うべきではないだろう”とは自分でも思う。 周りも“頑張り過ぎても身に着かない”と言ってくる。それはそうだ。 けれど、そんな常識を一段飛ばしするような鍛錬をしている人を私は知った。 私達が教えられた鍛錬法は、実に“子供向け”だ。 なるほど、確かに随分と伸びが速いと褒められたこともある。子供向けを子供がやったのだから当然だった。 「すぅ……」 書簡を読んでからはずっと続けている、“寝る時以外のほぼ全ての時間、氣の集中を続ける”こと。 自分の現在の氣の総量を正確に把握して、それが一日の終わりに無くなるよう身体に覚えさせる鍛錬。 続けて行うことで氣の総量も増えるし、氣を使っていない状態からの行使、集中の移行が随分と早くなる。らしい。それから治療の氣。他の書簡に書いてあった“手当て”の要領と同じく、痛んだ部分へ氣を集中させておくと、痛みが引くのが早い。 手当てというのはあれだ。痛みなどを感じる箇所に手を当てていると、多少なりとも痛みが引くのが早いという話。本当なのかは別として、もっと小さい頃に痛みを和らげてくれた父の手は、とても温かかったのを覚えている。 あれが氣を使ったものなのか、手当てだったのかはあの頃の私には解らなかった。解ろうともしなかった。 その頃の私が理解できたことなど、父はやさしいということだけだったから。 だからもしかしてを考える。小さな頃、痛みが消えるのが早かったのは、私が痛みに強かったからとか、自然治癒能力がどうとかの話ではなく、もしかして……と。 「はぁ……」 ともかくこの氣。筋肉痛の身体に満たしてやれば、ほんのちょっとだけ軽くなった感覚を覚える。 まあ、どれだけ氣の行使が上手くても、またすぐに駆けずり回らなければならないのだけれど。 「そろそろ仕事ね……」 時間を知らせるものがあるわけでもないけれど、朝の空気の変化というのは案外解り易い。 そんな感覚が私に“そろそろ仕事だ”と報せるから、溜め息を吐きながらも父の姿をもう一度見て、移動を開始する。……なんだか両手の指から物凄い数の氣の弾を発射してた! なにあれすごい! 自分の内側から沸きだした好奇心に、後ろ髪を全力で引っ張られながらも……サボるわけにはいかないから歩いた。父のことは知れたのだから、警備隊をやる意味はないと言えるのだけれど……自分から言い出してやり始めたからには、母が望むような成果を出す前にやめるのはいろいろと問題が……。 ああ……どうして始める前に、倉を調べるなんていう方法に気づけなかったのだろう。 で、でも、これは父が通った道! 父が築き上げてきた警備隊! そんな意味も兼ねて、途中で投げ出さずに何か結果を───! ───……。 コ〜〜〜〜ン……。 「もうやだぁ……」 早速心が折れそうだった。 昼の休憩時間、中庭の東屋まで戻ってきた私は、卓に突っ伏しながら弱音を吐き出していた。 何故かといえばやはり簡単で、揉め事処理に走った先で会うのが、必ずと言っていいほど将だったからだ。 正直に言おう。 私の中で、将と父の立ち位置が完全に逆転した。 私は内部の顔しか知らなかったんだなと呆れて、現在とても頭が痛い。 父がぐうたらで、将らは仕事が出来る人というのが前までの認識。 現在はといえば、父は働き者で、それをひけらかすことはせず、慌しい姿を娘に見せずに笑顔を見せて、遊ぶ時間さえ作ってくれた良き父だ。 それに比べて……将はあちらこちらで喧嘩はするわ揉め事を起こすわ、暴れた結果、飯店の椅子を壊すわ客足を遠ざけるわ……。なまじ力がある所為でまともに抑えられる人が居ないから、それも揉め事を連続させる結果に繋がっているらしい。 「………」 私は今まで何を見て、何を知ったつもりでいたのだろう。 そんなことを考えたら、寝る時間を削ってまで仕事をして、娘達と遊ぶ時間を作ってくれた父に申し訳なかった。 ……その、寝る時間を削ってする仕事の中に、騒ぎに対する報告も混ざっていると考えると余計にだ。 なんとか出来ないだろうか。 そ、そう。これをきっかけに話をして、ちゃんと謝って……うん。 「そうよ、曹子桓。己に自信を持ちなさい。ここで燻っていては出来ることも出来なくなるわ。私は曹孟徳が一子、曹子桓! これしきを乗り越えられないでどうするか! むしろ腕が鳴《きゅるぐぅ〜》ひぃうっ!? …………!!《かぁああっ……!》」 腕どころか腹が鳴った結果、がばっと立ち上がらせた身体をもう一度座らせて……卓に肘をついて頭を抱えた。 泣いていいですか、ととさま。 ───……。 …………で。 「………」 結局一度も声をかけられぬまま、夜である。 仕事は相変わらず。なんというか最初から最後まで、ほぼが将の尻拭いというか……。 ええと、これって偶然なのかしら? 私が入った途端に将が暴れているだけ? そうなのだとしたらまだ希望が持てるのだけれど、もし日常的に、以前からずうっと将ばかりが問題を起こしていたなら、いろいろと問題なのではないだろうか。 むしろそれを母さまが問題なしと見ているとしたら? ……だめだ、母を疑うな。あの人は覇王だ。 将と兵と民で、いろいろな面で差があろうが、民無くして国は成り立たない。 戦が無い今、そこまでの明らかな差別などない……はずだ。 騒ぎを起こせば民には罰を、将には忠告を、なんてことにはなっていないはず。 というよりもそもそも、将が問題を起こすこと自体が問題だ。 「すぅ……はぁ……」 溜め息ののち、呼吸を整えて氣を集中。 疲れ果てた身体を包むようにした……あたりで氣が尽きた。 これはいけないと、身体を包んだ氣を大事にしながら寝台へと歩み、ぽてりと倒れてそのまま眠った。 明日こそは謝ろう。そんな思いを胸に。 ───……。 翌日。 目が覚めるとけだるい身体を起こして、まずは柔軟体操。 ぼやけていた意識が完全に起きると、氣が回復していることを確認してから着替えて、部屋の外へ。 髪の手入れなどは当然着替えの中に含まれている。大丈夫、完璧だ。 「……えぇと」 部屋に居るだろうか。 今日の隊の仕事は夕方からだから、朝からはまあ時間がある。 まず厨房へ行って水を貰うと、喉に通して息を吐く。 それからはなんとなく中庭へ向かう……と、既にそこには柔軟をする父の姿が。 その傍らには動作を真似ている柄、邵、禅の姿が。昨日はあった登と述の姿は……居た。東屋の傍の斜面でぐったりしている。 ど、どうしよう。私も混ざろうかしら。でも急に行ったらおかしな子だとか思われないだろうか。 とか考えているうちに柔軟を終えたらしい父が駆け出して、それらを追う妹三人。 延とjは居ないようだけれど、まあ……鍛錬って子たちじゃないものね。 「あ」 「あ」 ぶつぶつと呟いていたら、禅と目が合った。 よ、よしなさいっ、ほうっておいてと目で語ってみるも、わからないのかそのまま私のところまで駆けてくる。ああ、これはあれだ。お節介を焼きにきたのだ。この子は根はいい娘なのだけれど、妙なところで強引で、張り切ると失敗するから……今も妙に張り切っているように見えるし、誘いかなにかだったりするなら……乗っかると絶対にろくな目に遭わない。断言する。 「曹丕姉さま! 一緒に鍛錬をしましょう!」 「いやよ」 即答だった。 にも係わらず、禅は私の手をむんずと掴んでぐいぐいと引っ張りだす。 「ちょっ……よしなさい! 私はべつにっ……!」 「だって曹丕姉さま、昨日は柱の影であんなに混ざりたそうにしていたじゃないですか!」 見られてたぁああーーーーーーっ!! 「なっ……ななななにを言っているのかしら? わたたっ……私が、そんなっ……」 「それにその……少し協力してもらえたらって。……あの、かかさまから聞きました。というか、愛紗さまに相談しているところを聞いてしまったのですが」 「え? 聞いたって、なにを?」 まさか、私が頬を緩ませて足をぱたぱたさせていたという事実を、兵づてで……!? ……ねぇ禅……いえ、公嗣。口、封じてもいいかしら。 「段階を追って話しますけど……落ち着いて聞いてくださいね。今、ああして妙な紙袋を被ってる人……実はととさまです」 「───」 ちょっと待て。あなたはなにか。私がそれを知らないとでも思っていたのか。 やっぱり口封じね。少しぽやぽやしたところがあるなぁとは思っていたけれど、これでは妙なところで口を滑らせる可能性は大だ。 「……公嗣? 私が、それがわからないとでも思ったの?」 「え? ……そ、そうですよねっ!? 解らないほうがおかしいですよねっ!? でもでもっ、他のお姉さまがたは気づいてくれないんですっ! 柄姉さまなんて、“校務仮面……恐るべき男よ”とか言って、汗を掻いてもいないのに顎下を腕で拭って……!」 「解らないの!?《がーーーん!》」 わ、我が妹たちながら、なんともまあ……いえ、これは純粋だと受け取るべきなのかしら。 ……純粋でも、呆れていいわよね。 「えと、そんなととさまですが、呉から戻ってきてからおかしいんです。私達のことを見てくれなくなりました。それで、さっきのかかさまの話に戻るのですが」 「そ、それと私がどう繋がるというのよっ! 私はべつにっ、好きであんなことをしていたわけではないわっ!」 「……え? あの、曹丕姉さま? なんの話で───」 「だから! わ、私が、と───あの人の鍛錬を真似て、頬を緩めていたとか……!」 「………」 「………」 「え?」 「え?」 ……マテ。 え? いやあの……えっ!? 「ちっ……違う、の? 私の話じゃ───」 「いえ、その。あくまでこれはととさまの話で…………その。曹丕姉さま、そんなことを……」 「───……《ザドッ、ずしゃぁあああ……!!》」 「曹丕姉さまっ!?」 膝から崩れ落ちた。 両手を母なる大地につけて、なんかもう泣きたくなった。 まただ。またなのか。どこまで私は妙な失敗を繰り返せば……! 「あ、あの、曹丕姉さま? そのっ……」 「いいの……いいわよもう……。どうせ私はこれだと思うと勝手に暴走して勘違いする馬鹿者よ……。どうせ母のようにも父のようにも立派になんかなれないんだわ……」 「え? ………………あの、曹丕姉さま? ……もしかして、ととさまのこと」 「ぐっ……!」 言われて、ズキリと胸が痛んだ。 そうよ、今さらよ。今さら知って、今さら構って欲しくて空回りしているわよ! だからなに!? 仕方が無いじゃない! 知らなかったんだから! そんな気持ちを込めて、涙が滲んだ目で禅を睨んだ。彼女はべつに悪くないのに、ひどい八つ当たりだ。 だというのに禅は嬉しそうに、ぱあっと笑顔になると、「やっとととさまのことを話せるお姉さんが出来ましたっ!」と喜びを口にした。 「え……」 「あ、でも大丈夫です曹丕姉さまっ! 勘違いして暴走して、今の曹丕姉さまのように両手両足をついて落ち込むの、よくととさまもやっていますから!」 「全然嬉しくないのだけれど!?」 いくら私が今、父の姿に焦がれていようと、こんな格好で落ち込むことに喜びを感じたりとか……! 「………《……もじもじ》」 「……曹丕姉さま?」 「はっ!? な、なんでもないわよ!」 だから冷静になりなさい曹子桓! こ、こんな、無意識にとった行動が父に似ていたからといって……! 「……こほん。それじゃあ話を戻しましょう。それで……禅? ち……あ、あの人が急に私達の前で鍛錬することになった理由は、なにか聞いている? それとも盗み聞きしたというのがそれに当たるのかしら?」 「たまたま聞こえただけですよっ!? ……うぅ……でもその、はい。理由、と言えるかは解りませんけど、聞きました」 ……それから、禅は語ってくれた。 父が呉で、なにか“どうしてもやらなければいけないこと”を知ってしまい、それをやり通すには強さが必要だったこと。そのために、娘たちに秘密だとか言っていられなくなったこと。どうせ娘達には嫌われているのだから、もう娘達のために時間を作る必要はないだろうと判断したということ。 「………」 愕然。 やはり今さらだったのだろうか。 もっと早くに倉のことに気がついていれば、現状を変えることは出来たのだろうか。 父は……書簡を通して知った父は、覚悟というものを大事にしていた。 あの娘に甘かった父のことだ、今回の決断も相当に悩んだに違いない。 となれば、覚悟だって決めただろうし……現に昨日、登や述がどれだけ苦しがっていても見向きもしなかった。 それを思い出した途端、“もうだめなのかな”と心が弱ってしまい、ようやく緩み方を思い出した頬が、再び強張っていくのを感じた。 妹の前なのだからとか、そんな意識は働かなかった。むしろ、そんな感情は知らなかった。 母のように気高く在れ。 自分の在り方を戒めるように生きてきた私は、こう言うのはひどい話だけれど、子高のように“姉なのだから”を言われたことがない。傍から聞いていてあまり気分のいいものではなかったけれど、そういうものなのだろうと聞き流していた。 だから、妹の前では凛々しい姉で在れなんて言葉も深く知りもしないし、そんな小難しいことを考えていられるほど……今の私には余裕がなかった。 (……あぁ……) どうしてこうなってしまったんだろう。 あの夕暮れの日、余裕がなかろうが棒読みのような言い回しだろうが、“ととさま”の話をきちんと受け止めていれば……なにかが変わってくれていたのだろうか。 後悔したってもう遅い。 むしろ、わくわくしていた心が打ちのめされてしまい、こんなことなら知ろうとするのではなかったと、心が弱りだして─── 「ですので、今が好機です!」 「───……え?」 弱ったところへの救いは、急に来た。 好機? いったいなにが? と目で問いかけると、禅は楽しそうに笑って言うのだ。 「姿を偽っていようとこちらを気にしてなかろうと、あれはととさまなんですよっ?」と。 …………考えてみる。 ろくにあの人を相手にしなかった私と、今の……私達を相手にしないあの人を。 ……逆になっただけだ。そんなこと、私だって自分でも言っていた筈じゃないか、今度は私の番だと。 あの人は今まで諦めず、構おうとしてくれていたじゃないか。 それをほんの二日三日で諦めようとするなんて、私は……。 「……ねぇ、禅。あの父だから、謝れば簡単に許してもらえるなんて考えていた私を……愚かしいと思う?」 「許すも許さないも、ととさまはどうせ怒ってもいませんよ? むしろその“どうしてもやらなければいけないこと”が無ければ、今も私達のために時間を作ってくれていたに決まっています」 「………」 眩しいなあ。素直にそう思えた。 愕然とした状態から力が抜けてしまい、座り込んでしまっていた身体を立ち上がらせると、じゃあ、と歩く。 父は今も物凄い速さで城壁の上を駆けている。 追いすがる妹たちは既にぐったりだ。 「禅。あなた……夜中のあの人の鍛錬に混ざっていたそうだけれど」 「? うん。ととさま凄いんですよっ? 今も随分と速いけど、もっと速く走ったり、火の球を出したり、木剣から光を出して飛ばしたりっ」 「……え、あ、ああ、うん……そう」 どうして教えてくれなかったのだという自分勝手な視線に気づくこともなく、我が妹は元気だった。いっそ清々しいほど純粋ね、この娘。 そして、自分よりも父のことを知っていた妹に嫉妬する自分に頭痛を感じた。 …………頭痛なんて割りといつものことね。あぁ頭痛い。 「曹丕姉さま」 「? なによ」 「どうしてととさまのこと、あの人とか呼ぶんですか?」 「《ゾグシャア!》…………っ……!」 突き刺さった。 かなり鋭く、深く。 違う、これでも頑張っているのだ。 頑張って父と呼ぼうとしているのに、これまでの日々と妙な自尊心などが邪魔をして、思うように呼べないだけ。 掌返しなんて嫌いだ。だからととさまと呼びたいのに“子供っぽい”などと言い訳をして、ならば父さまと呼ぼうとしてもまだ意地を張る。結果として父になりそうだというのに、なまじ“あの人”だの“彼”だのという認識の仕方をしていたため、呼ぶ時にまで影響が現れてしまった。 「………」 「曹丕姉さま?」 「父と……父と認めるのも躊躇われた時期があったからよ。彼……あの人……と、父さま、が、やっていることを知らなければ、今だってこんなところには居なかったわ」 そうだ。こんな風にまごまごとせず、自分の趣味と称しているもので時間を潰していた筈だ。 だというのに、今の私は……。 「おかしいでしょう? 笑ってくれていいわよ。ていうか笑いなさい。掌返しが嫌いだったくせに、今の私はひどい掌返しを───」 「……あの。それをして、誰が困るんですか?」 「え?」 きょとんとした顔で訊ねられて、訊かれた私のほうが戸惑ってしまった。 誰が? 誰が困る…………え? 「誰かが困る、誰かが嫌な思いをする、誰かが不快に思う掌返しならやるべきじゃないです、最悪です。でも、曹丕姉さまの掌返しはととさまへの誤解が解けた、いい方向での掌返しですし、それをして嬉しいのは曹丕姉さまも同じです」 「え、い、いえあの、禅? わわ私はべつに嬉しいだなんて一言も」 「嬉しくないんですか?」 「え……と」 「踏み出してしまえば、もう柱の影から真似る必要なんてなくなるんですよ?」 「それは忘れなさい今すぐ」 怯んだ顔から一変、真顔でつっこんだ。……でも、そうだ。 誰もが困らない掌返しに、なにを怯える必要があるのか。 “掌返し”という言葉に嫌悪するのではなく、誰かが悲しむ“掌返し”を嫌えばいい。 ……やっぱり私は単純すぎるのだろうか。こうと思うと、それに係わる全てを誤解してしまう。 「とにかく、それで曹丕姉さまが笑えるなら、掌なんていくらでも返せばいーんですっ! 遠慮なんかいらないんですっ!」 「………」 うん。まあ…………うん。 あれー…………ところで何故私は、妹に説教されているのだろうか。 そういう話だっただろうか。 ………………そういう話ね。結果としてこうなっているのだから、つまりは踏み出せない私が悪いのだ。 きっと一緒に鍛錬をしたところで、父は紙袋を被ったまま見向きもしないのだろう。 それでもいいと思えた。 ろくに鍛錬も一緒に出来なかった私達だ。 せめて一歩でも傍で、今まで誤解をしていた分……自分から歩み寄ろうと思う。 もちろん、仕事優先で。 近づくことで何かが遅れるのは、父も母もきっと認めないだろうから。 「行きましょう、禅」 「あ……はいっ!」 走り出す。まずは一歩。 見向きもしなかった分、今から全力で彼……あの人、じゃなくて、父……えと、と、父さま……の、あとを追う。 これでも警備隊で随分と走りまわされたのだ。氣だって充実している。 すぐに追いついて、あの人が見ている景色を、私も───! ……。 コ〜〜〜ン…… 「げほっ! ごっほっ……! はっ……はひっ……ひぃっ……!」 前略お母様。無理でした。 私の中にはまだまだ父さまに対して“ぐうたら”の印象が残っているようです。 きっと余裕だなんて思っていた私はあっさりと氣を枯らし、体力も枯らし、城壁の上で目を回していました。 だというのに未だ走り続ける父さま。 うん解った、私の父は化物だ。 それでも追いつきたくてふらふらと歩いていると、途中で見張りの兵が座る場所を用意してくれた。 情けなくもありがたく座らせてもらうと、軽い調子で兵が始める昔語り。 私が父さまのことを知っていることは、兵らの中では(あくまで兵の中だけで)常識的に知れ渡っているらしく……むしろ父さまのことを話したくてうずうずしていた分を吐き出すように、彼は話した。 ……書簡竹簡から得た知識で、鍛錬がとんでもないものだとは知っていたけれど……父さまはあくまで当然のことのように書いていたから気づけなかった。聞いてみたら呆れた。 「そうですねぇ……女性が強いのは常識的なものですし、我々が鍛錬して身につけるもの以上のものを、一度で得る女性というのももう呆れるほど見てきていますが……」 兵は語る。 それでも、北郷一刀という人物が今までしてきた鍛錬の量は、普通ではちょっとついていけないものだと。 笑顔で言われたわ。「一度最後までついていけば解ります。確実に吐けますよ」と。 なんでも父さまは、ある事情で身体が成長しないらしい。 天から舞い降りたのだから、きっとその気高さのために違いない。私達とはいろいろと違うのだろう。父さますごい。 で、なのだけれど。 身体が成長しないということは、筋肉も発達しないということ。 そのため、氣を鍛える以外に強くなる方法がない。お陰で、と言っていいのか、過去から今にかけてを氣の成長のみに向けたのが今の父さまなのだそうだ。 「………」 本当に呆れてしまった。 つまり、あれらの速さは全て氣で行なっていると。 「“氣だけ”を見れば、将の皆様にだって“きっと”負けていませんよ」と言う兵は、少し苦笑気味だ。あれで、筋肉も成長すればなぁ、なんて何かを懐かしむように言ってくる。 どうして成長しないことが解ったのかを訊ねてみれば、「何年も一緒に居て、他の方々が変わってきているのに一人だけ変わらなければ、嫌でも気づきますよ」……とのこと。 「ふっ……く……!」 どうやら歳も取らなそうな父が走る姿を見て、だったら同じくらいの外見年齢になるまでに追い抜いてやろうと立ち上がる。 こんなところで躓いている場合じゃない。 偉大なる母と偉大なる父、そのどちらにも追いついて……胸を張って生きてやる。 父さま相手なら料理では勝てる、つもり。あいすとかお汁粉では勝てる気はしないけど。 本当に、とんでもない人を両親に持ったものだと笑えてくる。 そうだ、笑えるならまだ大丈夫。 やってやろうじゃない。兵が言う、吐くほどの鍛錬を終えてもまだ、諦めずに進んだ先に父さまが居るのなら、そこへすら辿り着けないようでは一生孫策にも勝てないし、両親に追いつくことなど出来やしない。 今は吐いてでも前へ。 その過程で、機会を見つけられたら……謝ろう。 受け入れてもらえるとは到底思えない。 父さまがなにを思い、何を目指しているのかなんていうのは解らない。訊いてもきっと話してはくれないだろう。 でも、それなら届くまで我慢だ。 辛くても笑える瞬間があるのなら、きっとまだ大丈夫。 我が儘を言うのなら、いつかのように頭を撫でてほしい。褒めてほしい。笑ってほしい。 昔は当然のことのようにあったそれらが、自分が拒絶してしまった所為でなくなってしまったことを思うと、泣きたくもなるけれど……自業自得だ。今はそれでいい。私に無視されて傷ついた父さまのことを思えば、こんなことくらい我慢できないでどうするんだ。 「吐くまでっ……」 吐くまで頑張ってやる。 吐いたって頑張ってやる。 父さまが自分を見てくれないのは……悲しい、寂しい。 いつ、父さまが自分で満足する位置に立てるのかなんてことは、きっと誰にも解らない。 最悪、これからずうっと、私達のことなんか見てくれないのかもしれない。 ならどうすればいいのか。なにをすればいいのか。 「っ……」 ならせめて。会話が無くても、一緒に同じことが出来る今を大事にしよう。 邪魔をしたいわけじゃないんだから。謝ろう謝ろうとする所為で、目指す位置を邪魔することになるのは本意じゃないから。 「はっ……禅はっ……」 無理矢理動かした身体で、そういえばと禅を探す。……と、私の後方で目を回して倒れていた。それでも進もうとしているあたり、どこまで頑張り屋なのか。 「……、……」 足がふるふる震えている。 そんな足を動かして、禅の傍へ。 腕を取って肩を貸そうと屈み込んだ瞬間、かくんと力が抜けて、膝から強く倒れこんでしまう。 「つっ……!」 途端に“なにをやってるんだろう”なんて、自分を馬鹿にするような感情が沸いて出る。 心が弱っているところに、小さな失敗は深く突き刺さる。解っていても止められない。 (……本当に、なにをやってるんだろう) こんなことなら何も知らないままのほうが良かった。 なにも知らず、孫策が言っていたみたいに女の人でも好きになって、男なんて見下して。 何も知らずに生きていられたら、こんな寂しさを味わうことなんてなかったのに。 なんて。膝に滲んだ血を見たら、嗚咽が込み上げてきた。 動きやすいようにって、転んだ時のことなんて考えない着衣を選んだ結果がこれだ。 禅に誘われて一度は断ったくせに、最初からそのつもりだった自分さえもが情けない。 そして、今日もまた、いつかのようなことは起こらないのだ。 自分にはもう、どうしてかつてはあんなにも簡単に痛みが引いたのかも解らない。 見下ろす膝は痛くて、今を思う心は苦しくて。 こんな痛み、あの頃のようにすぐに暖かさと一緒に無くなってしまえばいいのにって…… 「……、え───」 目尻で膨らむ涙を拭おうともせず、もうこぼしてしまえとまで諦めていたそんな時。 いつかのような暖かさに包まれて、見下ろしていた膝の傷から痛みが消えていって……。 「え、え……? なんで───」 おろおろと自分になにが起こったのかと焦る。だって、氣はもうろくにない。 癒しの氣なんて気の利いたものも、私は上手く扱えないし、そもそも言った通り氣はろくにない。 なのにどうして、と自分の内側を覗いてみれば、自分のものではないなにかが自分に繋がっていることに気がついた。 はっとして顔を上げてみると、さっきまで私達のことになんか見向きもしなかった、紙袋を被った父さまが立ち止まっていて……柔軟運動をする振りをしながら、私に氣を繋げていた。 「───」 もう一度、思い出してみよう。 もっと小さい頃、転んだときに一番近くに居てくれた人は誰だっただろう。 痛みに泣いたとき、傍に居て頭を撫でてくれていた人は誰だっただろう。 ……涙が溢れた。 答えを得てしまえば我慢なんて出来なくて。 私は……ぜえぜえと息を乱してぐったりする妹の目の前で、子供のように泣いたのだ。 痛みが消えたと同時にまた走り出す父さまに何も言えず。 父さまも、目の前で泣く娘に何も言わず、目もくれず。 城壁の上で影を重ねた私達は、結局なにも伝えられないままに、言葉も視線も交わさないままに、ただ静かに……擦れ違っていった。
ネタ曝しです。 *雨が降れば空にある曇天を拳から放つ氣で吹き飛ばし 波夷羅一伝無双流奥義/昇龍裂天衝 曇天さえも吹き飛ばす龍の奥義。 すももももももより。 もしくは飛竜昇天波など。 *座ったままの姿勢で跳躍 ウィル・A・ツェペリは若かった! ジョジョの奇妙な冒険第一部より、ツェペリさんの跳躍。 *軽功 中国武術の鍛錬法の壱、軽身功。スプリガンでは軽氣功。 枝の先の葉っぱの上にだって乗れるほど、体が軽くなります。 人間じゃねぇとか化物だって言われても仕方ない。 身体を軽くする、速く走る、高く跳躍するなど、一刀くんの鍛錬の大元はこれ。 氣を行使しての“速く走る”は成功していたので、あとは身体を軽く、高く跳躍。 軽くするは操氣弾の要領。高く跳躍は、軽くすると速く走るを合わせたもの。 *こうしてこうしてこう 弥彦王子。アニメるろうに剣心より。 右手を左胸に沿え、左手を右胸に沿え、最後に相手に向けて手を開く感じ。 ……なんで今さらこれを思い出したのだろうか。謎だ。 *恥ずかしいとかそういうのではなく、なんかこう…………死にたい。 男子高校生の日常より、ヒデノリくん。 凍傷はアニメでハマったクチです。 121話をお送りします、凍傷です。 一刀くんに鬼になれって言ったって、心の底からは無理でしょう、というお話。 さて一刀くん。 急に娘達が寄ってくる理由を考えて、結局自分よりも校務仮面の方が慕われているんだなぁと、さらなる誤解を生んでらっしゃる。 娘が寄ってくれば寄ってくるほど、いかに自分が嫌われていたのかを受け取り、紙袋に隠されてはいるけど随分と傷ついているのが現状。 曹丕が混ざってきた時点で軽く泣いております。 どれだけ遊びに誘おうとも溜め息を吐かれ、呆れた目で見られたりもしたというのに、校務仮面相手ならそんなに楽しそうに乗ってくるのか……と。全部誤解なんですけどね。そもそも遊びではなく鍛錬に誘っていれば、まだ違ったでしょうに。解っちゃえばなんでもどうってことないものなのにね。“解らない”って本当に残酷だと思います。 さて……他には特に語ることもなしですね。 時間がとれればまた久しぶりに絵でも描くかなぁ。というか描きたい。時間ない。 おまけ番外IF お題:もしも紙袋を強引にでも取ってみたら -_-/黄柄 ゾザザザザと駆けるとある日。 最近急に現れた校務仮面とやらの正体を見るためだ。 甘述、周邵とともに円の動きで校務仮面を囲み、隙あらば襲い掛かる。 しかしこれがまたつわもので、同時に襲い掛かったというのにあっさりと吹き飛ばされてしまう。 まずは邵の腹に掌底。述姉の腹にも掌底。残った私は氣弾という、呆れた弾き方。 どうやら足から放ったらしく、下からくる攻撃に気づけなかったのは反省点だ。 「くっ……やるな、校務仮面とやら……! ますます正体が知りたくなった! 覚悟しろ!」 などと指を差して言い放った次の瞬間、校務仮面の頭部に一本の矢が突き刺さる。 厳密に言うと、鏃を潰した鍛錬用の矢が。 それは紙袋をあっさりと貫通し、そのままの勢いでズボリと紙袋のみを奪い、地面にぶつかって折れた。 「よしっ! よくやったぞ呂j!」 そう、これは作戦だったのだ。 私達が注意を引き、離れた位置からの呂jによる射。 やつを動かすためにいろいろと条件が必要だったのはいうまでもないが、今は目の前の楽しみをこの目に焼き付ける! さあ、どんな顔をして───……… 「………」 「………」 「………」 「…………Yes! We! Can!!」 『ほぎゃああああああああああああっ!!!!』 眩しいくらいの笑顔がそこにあった。 けれどその顔は期待していたものとは違い、てっきり父かと思った私はそれはもう心の底から絶叫。 邵も述も大変驚いたらしく、述なんて目の端に涙を滲ませてまで叫んでいた。 しかも、しかもだ。 ソレは怯み、ジリジリと後退る私達を前に、妙な姿勢を取りながらジリジリと近づいてくるのだ。 城壁の先では楽隊が整列して、今度やるらしい“数え役萬☆姉妹”のための音楽練習をしているようで、今この場とそちらとでは明らかに温度差が違って頭がおかしくなりそうだ。 むしろそんな音楽に合わせて接近しているようにさえ感じられて、もう泣き叫びたいやら逃げ出したいやら。……い、いや、逃げるなんて嫌だぞ私は! こんな笑顔なだけの男を前に逃げるなど───! 「………《ドンドコドンドコ♪》」 近づいてくる。 笑顔のまま表情を変えない男がジリジリと。ていうか音楽とめてくれ! いい音楽なんだろうけど怖い! この男と一緒だと怖い! 「《じりじり……》…………《ズンバコズンドコ♪》」 「ううっ……」 「《ドンドンドンドンドンッ♪》アイヤァアーーーーーッ!!!」 『ぎゃあああああああっ!!!!』 そして絶叫。 三人で縮み込み、目の前まで来ていた男がアイヤーと叫んだ途端、私達は涙さえこぼして叫んだ。叫んで逃げ出した。 三人が三人別方向に逃げて、怖くて後ろなど振り向けないままに自室まで駆けて、布団を被って震えて過ごした。 そして気づけば眠っていたようで、目を覚ましてから思うことは……笑顔の男の何が怖くて逃げたのだろうという、へんてこな疑問だった。 けれどもう一度見たいとは思えなかったので、三人で決めたのだ。 校務仮面の正体は、絶対に秘密だと。 完 大したオチもないお話。たまにはこんなのも…………うわーいなんかスッキリしなーい。 でも思いつきなんてこんなものですよね。 いやぁ……忘却の旋律、好きですわぁ。 ちなみにドンドコドンドコ・ズンバコズンドコ・ドンドンドンドンドン・アイヤー!は、サクラテツ・対話篇より。 中途半端なお話の後ですがここまでで。 それでは皆様、壮健で。 Next Top Back