幕間/御遣いさんの扱いについて -_-/華琳 情報だけは先に来ていたのだから、特に構えることもなく今日という日を迎えた。 私室に迎えてみれば依然変わり無き呉王が現われ、私を見るや「はぁい」などと軽く手を上げ笑っている。 会って早々に溜め息が出たのは、彼女が来る前に届けられたその情報によるところが大きい。いいえ、それしか原因が見つからないくらいよ。 「それで? わざわざ護衛もなしに国を跨いでどういうつもり?」 「あれ? 書簡を届けたはずだけど。見てないなんてこと、ないわよね?」 「ああ、あれ。届いて早々に燃やしたわ」 「ちょっとぉ、いくらなんでもそれはあんまりじゃない?」 「………」 「………」 多くは語らず、それが冗談だと解っていて驚いてみせている。 溜め息を一つ、話を戻す。 「一刀を三国共通の財産にする、なんて。本気で考えているの?」 「もっちろん。じゃないと一刀が納得してくれそうにないんだもん。意地でも頷かせてみせるって大見得切っちゃった分、もう後には引けないのよねー……負けを認めるのは癪だし、他の男にこの体を許すなんてもっと癪だわ」 「それで、一刀ではなく私を説得しに? 悪いけど、そういう類の冗談は好きではないの。私はすでに許可を出したはずよ? 無理矢理ではないならば、貴女が本気ならば構わないと」 「……なるほどねー。その旨、書簡に書いていた時もそんな顔してたんでしょうね、華琳は」 「あら。私がどんな顔で何を書こうと、貴女に迷惑がかかるのかしら?」 顔が少し笑んでいるのが解る。 一刀のことだ、どうせ誘われれば手を出すのだろうと踏んでいたけれど、まさか出さずに居るなんて。 そんな事実が不覚にも私の心を暖かくし、さらに不覚なことに頬まで緩ませていた。 だってそうだろう。 雪蓮がわざわざ私に“許可”を得ようとするということは、すでに一刀は雪蓮からの誘いを断ったということ。 魏の女性全てに手を出した一刀のことだから、呉でも手を出す……たしかにそう思っていた自分は居たのだが。 それはそれでいいとも思った。 自分が認めた王や将が、自分の知らぬくだらない男なぞに抱かれる様は、思い浮かべるだけで吐き気がする。 だからこそ雪蓮らが本気で望み、一刀がそれを受け容れるのであればそれも良しと思うつもりではあったのだが……聞けばどうだ、一刀は結局一切の手を出さず、呉をあとにしたのだという。 「信じられる? 呉の将のほぼに言い寄られても、“俺は華琳と魏に身も心も捧げた”なんて言って断るのよ? そりゃあたしかに一番最初に“揺るがない”とは聞いてたけどさ〜……まさかここまで揺るがないなんて思ってもみなかったわ」 悔しそうに、けれどどこか楽しそうに語る雪蓮の様子が、彼女の口から語られる一刀の言葉が……おそらく自分は嬉しいと感じている。 “王がこれしきで喜ぶな”と、自分の感情を戒めようとするのだが、どれもが空回りだ。 けれど喜びも一時のもの。話の筋が見えてからは、逆に疑問点へと変化し……とある結論へと至らせる。 「だからね、一刀の願う通りにしてやろうって思ったのよ。魏の誰かを悲しませてまで受け容れることじゃないっていうなら、魏の将全員から許可を得て一刀に頷かせようってね」 「へえ……そう。……一つ訊くけど雪蓮? 一刀は揺るがない、断ると言ったのね?」 「ええ、誰が迫ってもその調子よ。そのくせ人の心はしっかり揺るがしていくんだから、性質が悪いったらないわよ。もう」 ああやだやだ、なんて大げさに手を振って疲れた表情を見せるが、口調は楽しげだ。 どうやら本当に一刀にしてやられたらしい。 でなければこんなにも楽しく一刀のことを話すことなどしないだろう。 「なら好きにするといいわ。桂花や春蘭あたりは軽く頷くでしょうけど───ふふっ、あの一刀が“揺るがない”、ね……ふふっ……。雪蓮、貴女……凪と霞には絶対に苦戦するわよ」 「凪と霞に? ……ああ、そうね。あの子たちには相当苦戦させられそうだわ」 「私も、私が認めた者がくだらない男に抱かれ、次代を担う子を宿すなどということを想像するのは吐き気がする。ならばいっそ一刀を、とは思ったけれどね。一刀が頷かず、魏の娘全員に託すのであれば───雪蓮。様々な意味で、一人だけで上手く行くとは思わないことね」 「……ふふっ? 華琳、顔がにやけてるわよ?」 「っ!?《ババッ》」 「あら、自覚あったの? そんなに慌てて」 「───……《ヒククッ……》」 してやられた。 どうも私は一刀のこととなると冷静ではいられなくなる。 あの男は、この場に居なくても私から“覇王”という険を剥がしたがるのだから……困ったものだ。 「でもまあ、お礼は言っておくわ。可能性が全く無いわけじゃないなら、頑張り甲斐もあるもの。手に入りづらいほうが燃えるでしょ? そのために、待っていればいいものをこうして楽しみに来たんだし」 「───……ええ、そうね」 まったくその通りだ。 悔しいが、私はそれをとっくに実感している。 手に入りづらいほうが燃える……どころか、手からこぼれてしまったものが再び戻ってきてくれた。 それだけで人の心をこうも揺るがすのがあの男なのだから、私は……今度こそあの男の全てを手に入れる。 勝手に居なくならないよう、一刀のことを要らない存在などとは決して思わない。 宴の夜の杯にかけて、我が名、我が真名にかけて、魏という旗の全てにかけて。 あれほど望んだ天下を手中に納めさせたくせに、人を泣かせたあの男を……私は絶対に許さない。 絶対に許さないから───ずっと傍に居させるのだ。 どこまでだっていつまでだって一緒に居させ、いつだって文句をぶつけてやろう。 人がどれだけ辛かったのか苦しかったのか、我が生命の続く限り思い知らせてやるのだ。 (……ふう。少し落ち着きなさい) 考えることは尽きない。 打算的なことを言えば、この大陸での絆を増やせば、彼が再び天に戻ってしまうなんてことはないのではないかと考えた。 だからこその、本気ならば手を出していいとの返事。 しかし人の気持ちも知らずにそれを断って、あのばかは私や魏に全てを捧げたなんて言ったのだという。 ……本当に。どこまで人の調子を狂わせれば気が済むのだろう。 「じゃ、行くわね。凪と霞は最後あたりに攻め落とすとして、まずは……華琳の言う通り桂花と春蘭ね。うん、むしろ桂花には協力してもらお。彼女、随分と天の御遣い様が大嫌いみたいだから」 「男を認めるのが嫌なのよ。他の男と比べれば一刀が多少優秀な分、“男の中では”自分の知る限りでは誰よりも秀でている。けれどそれを認めれば自分は、とね。ふふ、可愛いものじゃない?」 「意地悪いわね、華琳……」 「あら。やさしいくらいよ」 ふっと笑い、来た時と同じく軽く手を上げながら去っていく雪蓮を見送る。 扉が閉ざされ、人の気配が消えるのを確認すると……出たのは溜め息だ。 「……あの男は。いったい呉でどんなことを……」 つい先ほどまでこの場に居た雪蓮のことを思い返す。 あれではまるで、恋事に夢中な生娘だ。 言葉のあちらこちらから、必ず一刀を手に入れるといった無駄な気力が溢れ返っているのを感じた。 雪蓮はどちらかといえば、私に近しい存在だと思っていたけれど……男にもきちんと興味があったのは、少々意外だった。 ……いや。気に入ってしまえば手中に納めたくなる気概は、たしかに似ているのかもしれない。 それはまさに気概だ。 困難であればあるほどに心に火が付き、どうやってでも手に入れたくなる。 叩いて叩いて叩き潰して、自分のものになると歩み寄る者には慈愛を以って迎える。 離れてゆくものには一切の容赦はせず、来るものは拒まない。 そうだ。この私から離れてゆく存在なんて考えられなかった。 欲しいと願い、手に入れてきたものは、全てが私から離れようとはしなかった。 だからこそ過去より今まで、来るものを抱き締め去るもののことなど考えたこともない。 私の中の常識を破ってしまった、たった一人の例外が現れるまでは。 「…………本当に。いつまで油売ってるのよ、ばか……」 その例外は、私に“女”を刻んだ。 覇気を我が胸に、いつまでも覇道を進み、いつまでも覇王のままであるはずだった私に女を刻んだ。 気づいてみれば心安い。 もし一刀を拾わないで覇道を進んでいたのなら、それは果たして覇道であってくれたのか。 そう、気づいてみれば心安い。 覇王としてずっと気を張り、覇王のまま過ごす日々は、私にどれほどの夢を見せただろう。 女として休む暇もなく、王として生き、覇道の役に立たぬのならとなんでも切り捨てていたら───きっと今の自分は存在しなかった。 「覇道、ね……」 自分が目指したものが、いつしか自分だけのものではなくなる。 その流れがあまりに自然だったから気づけなかった。 けれど、気づいてみればそれはとても心地が良く、隣を歩む者が居なければ決して、気づけぬどころか手に入れられなかったもの。 “利用価値があるうちは使ってくれ”なんて言っておきながら、勝手に消えてしまったあのばかへと言いたいことなど山ほどある。 それら全ての思いを含め、今こうして彼を思っている自分はもうきっと、覇王ではなく“女”だった。 宴の時も思ったけれど、せっかくこうして帰ってきたというのに……何故あの男は私の傍に居ないのか。 いっそ、それこそ生娘のように「行かないで傍に居て」などと口にしていたら、彼はここに居ただろうか。 「……馬鹿ね、曹孟徳」 それをしたら、もう北郷一刀じゃない。 馬鹿でいやらしくて、女とみればほうっておかない、けれど男に厳しいわけでもなく、兵であろうと民であろうとまるで仲間のように打ち解け、そんな在り方が魏の皆に親しまれている。 それは私にはない立ち回り方であり、彼が彼である証だ。 その中の一つでも狂ってしまったら、途端に興味が薄れそうな自分が居る。 居るのだが……非常に腹立たしいことに、薄れたところで傍に居なければ苛立つであろう自分も想像が出来てしまった。 「……はぁ」 北郷一刀という男は不思議だ。 “自分の領域”というものに一度でも足を踏み入れられたなら、自分でも気づかないうちに領域の軸を捻じ曲げられていて、ふと振り向いてみれば───いつから彼を気に入っていたのかが解らなくなる。 だからこそ離れがたく、傍に居ないと落ち着かない。 だというのにあの男は頼まれれば嫌と言えず、まあ言ったところで無理矢理引きずりまわすだけだけれど、ともかく人の頼みには基本的に弱いのだ。 弱いからこそ頼まれれば遠方にでも飛んで行くし、私はそんな彼に弱さを見せるのが嫌だから、戻ってこいなどとは口が裂けても言わない。 ……本当に、嫌な循環でこの関係は繋がっているものだと呆れた。 「帰ってきたら、どうしてくれようかしら……」 溜め息を一つ、座っていた椅子に深く背を預けて天井を仰いだ。 ……少し、退屈だ。 同じ大地に彼が居ることを実感しているためか、以前のような気持ちの悪い気分はない。 何故消えたのか、嘘をついたのか、ずっと一緒に居るって言ったくせに、許せない、許せない、許せない……。 そんな思いも溢れて来なくはなったが───一刀が戻ってくる前の自分を思うと、自身の情けなさに頭を痛める。 思考はいつまで経っても正常には戻ってくれず、周りは何も言わなかったが、迷惑をかけたことは自覚している。 自分らしさを取り戻すまでにかかった月日は一年あたりに及び、ようやく自分の物語を生きていると胸を張れた矢先にあの馬鹿は戻ってきた。 本当にどうしてくれようかと思った。 川で姿を確認した時など、自分が幻でも見ているのかと目を疑ったほどだ。 だというのに、人の悩みなんて気にしないとでも言うかのように両腕に女を寝かせる姿を見れば……頭にもくるだろう。 最初こそその暢気な顔を踏んづけてくれようかと思ったほどだ。 (………) 不思議だ。 望んだものはなんでも手に入れて、今までの時を生きてきたというのに……傍に在って欲しいものが今、傍に無い。 それがたまらなく寂しいと思っている自分が“覇王然”としていないことに苛立ちを覚えるのに、どうしてもそんな自分を切り捨てることが出来やしない。 私は臆病だ。 覇王として振る舞えば怖いものがないというのに、ひとたび女にされてしまっただけで、こんなにも色々なものが怖い。 言葉にすればいろいろと、なにが大切これが大切とどれだけでも口に出せるというのに。何より怖いのが、苦楽をともにした同士や同志、育んできた国や邑、その場に生きる民たち───そして、天の御遣いが消えてしまうことだった。 覇道は成ったと云えるだろうか。 そんなことを時々にだが思う。 天下を取ることが我が覇道ならば、それはとっくに成っている。 しかし天下を取るだけが覇道でいいのであれば、天下を取った今、失うことを恐れる理由が何処にあるのか。 ただ天下を取ることだけを覇道にしていたのであれば、今さら国がどうなろうが知ったことではない。 現状維持が嫌だというのなら全てを放棄して彼の元へ駆けていけばいい。 きっと、王としては見ることの出来ない“色々”が見れるだろう。 しかし彼はそんな自分を受け容れるだろうか。受け止めるだろうか。 「───愚問ね」 受け容れるに決まっている。受け止めるに決まっている。 そして───受け容れた上で、受け止めた上で怒るのだ。 天下を治めることが覇道ならば、その過程に手に入れた全ての責任と向き合えと。 羽根休めの場にはなってくれるが、逃げ道にはなってくれない男だろうから。 逃げ道になりなさいと言えばなるのだろうけど、恐らくは一時のみか、ならずに本気で拒むか。 (そうね……雪蓮。貴女の考えがどうであれ、一刀は誰かを故意に悲しませるようなことはしないわ。貴女がどうこうするよりも……時間が解決するわね。だって、どこまでいっても彼は北郷一刀だもの) どれだけ武を得ようと知を得ようと、その事実が基盤としてある限り。 あの男が人の真摯なる願いを断り続けられるとは思えない。 もし本当に必要に迫られた時にまで、私が魏がと言って断るようなら……頬の一つでも張ってあげるわよ。 (私が一刀に願うのは一つ。一刀が一刀として、どんなことがあろうが“私のもの”であればいい。それが約束されているのなら、いくらでも誰にでも手を出せばいい。男としてそれだけの胸の広さも無いようでは、私の相手など───……ふふっ) 思考にふけっていると、ふと体の力が抜けた。 頭の中が一刀のことだらけになっていることを実感しながら、心地よい脱力を味わう。 余計な話を加えていないのなら、“学校”についての話を纏め終えた時点で彼は帰ってくるだろう。 もしくは学校の完成のあとか。 すでにこれだけ待たせたのだ、本当に……帰ってきたらどうしてくれよう。 そんなことを思いながら、白んでゆく思考に笑みを飛ばして目を閉じた。 最近の自分は張り切りすぎだ。 何を浮かれているのか、何を望んで仕事を残しておきたくないのか。 少し考えれば予想もつきそうなものを、敢えて結論づけずに笑う。 (さっさと……帰ってきなさいよ、ばか……) ほぼ毎日呟いていることを口にして、意識を手放した。 机に詰まれたものに、手を出さなければいけないものなど残ってはいない。 憂い無く夢の中へと飛び込んだ私は、せめて次に誰かが私室の扉を叩くまでは安らいでいようと息を吐いた。 48/新たなる生活、新たなる空気の中で 蜀国成都での暮らしが始まった。 やっぱり目まぐるしく過ぎ行く時間の中で、右腕が不自由なだけで“出来ること”が極端に減るなぁと何度実感したことか。 「じゃあまず、基本の体力作りから。体力がないとどうにもならないから、とにかく持久力をつけていくんだ」 「はいっ、お兄さんっ」 なかなか政務を抜けられない桃香とは、これが初めての鍛錬となる。 相も変わらず三日毎の鍛錬を続けている俺と、ようやく時間が合ったためにこうして中庭に立っている。 着衣は道着。びしっと着付けたソレが、俺の心を引き締めてくれる。 スカートはやめたほうがいいという俺の言葉に、「スカート?」と首を傾げる彼女にスカートとはなんぞやから説き、張飛のようなスパッツを……穿いてもらおうとしたけど目に毒そうだったので動きやすいショートパンツを。 ……うん、この世界って衣服に関しては不思議なくらい品揃えがいい。どうなってるんだろう。 まあそんなことよりも。 無事に関羽さんとの話し合いに勝利できた貴女を、本気で凄い人だと認識しました。 「でも基本にも準備が必要。その一つとして、まずはその名の通りの準備体操」 「体操?」 「そ。体全体を、運動用にほぐしていくんだ。政務続きだったから、体とか硬くなってるんじゃないか?」 「えと……《ギギ……》……うぁぅ……そうかも……」 目を太い線状にして、涙を滲ませつつ悲しそうにしていた。 前屈をしてみるんだが、爪先に指が届かないらしい。 「うん。じゃあまずは簡単なところから。関節をこう……ちゃんと意識してだぞ? 一瞬、本当に一瞬でいいから、ビキッと思いきり緊張させる」 「うーーーんと……はふっ!」 びしっ! と桃香が体を緊張させる。 直立不動で少し足を開き、肩を持ち上げ、下に下ろしている手はキュッと握り、甲が上になるように少し持ち上げている。 そんな様をじーーっと見ているんだけど、一向に緊張を緩める気配を見せない。 「……こらー、桃香桃香〜? 一瞬だけだよ、一瞬だけ〜」 「あ……ぅぅ……」 思い出したのか、少し顔を赤くしてしゅんとする桃香。 緊張は無くなり、けれどそれを数回続けてと言うと、素直にやってくれた。 「ねぇお兄さん? これってなにか意味があるの?」 当然の質問だ。 それに答えるべく、自分もやっていた行動を一旦止めて口を開く。 「関節や筋肉ってのは柔軟体操だけじゃあ柔らかくなりきらないからさ。こうして関節や筋肉を瞬間的に伸び縮みさせてやると───桃香、前屈やってみて」 「? えっと……はっひゅっ!」 不思議な掛け声とともに桃香が前屈をし───その指が、今度は足に届く。 「! えっ!? ななななんでぇえっ!? 届く……すごい、届くよぉおっ!?」 相当に興奮したんだろう。 桃香は自分がやってみせたことが信じられないらしく、何度も何度も前屈をやってみせる。 それをやんわりと落ち着きなさいとなだめ、関節や筋肉が多少柔らかくなっているうちに準備体操と柔軟運動を屈伸メインで始める。 今度は一瞬じゃなく時間をたっぷりかけて、多少柔らかくなった体をさらに一箇所ずつ重点的にほぐしていってから、そのまま時間が経っても元に戻らないように、伸びた状態を保たせておく。 「んっ、くっ、うぅうううぅぅ〜〜〜……ちょっと……苦しい……かも……!」 「あ、息は止めないで、少しずつでもしっかり吸って吐いてをすること。こう、伸ばしている部分に酸素を送る気持ちで、ゆっくりと───吸って〜……」 「す……ぅう……ぅ……」 「吐いて〜……」 「はぁ、あぁああ〜〜〜…………」 「ん、その調子。痛くなりすぎない程度まで伸ばしたら、その状態のままキープ……あ、いや、固定ね」 「う、うん……ふくっ……ふ、ぅうう……」 ぺたんと地面に座り、足を両脇へと伸ばし……上半身は前へと倒す。 体が柔らかい人は地面にぺたりと胸までくっつくんだが、固いとそうはいかない。 桃香の場合は……まあその、胸の大きさのお陰でくっついてはいるけど……うう、目に毒だ。 「じゃあ次。手首や足首の運動。ここをよくほぐしておかないと、走ったり腕を振るったりする時にピキッと引きつる時がある。足首に妙なしこりみたいなものを感じる時は、特に忘れちゃだめだ」 「は、はいっ……」 準備運動だけで息がきれていた。 うん、たしかに体力無いかも。 でも最初は誰だってこんなもんだ───根気よくしっかりと、諦めずにやれば身に付くさ。 ───……。 で……準備運動の全てが終わったわけだけど。 「……きゅう」 ぐったりという言葉がこれほど似合う状態は無いと思う。 中庭の中央に倒れる蜀王・桃香様は、ぜひーぜひーと息を荒くして立てないでいた。 「これから城壁の上を走るんだけど……大丈夫か?」 「うぇえええ〜〜〜っ……? お、おにいさっ……平気、なの……っ……?」 「全然平気だけど……たしかに最初はキツイよな、この準備運動。でも走るための体力を温存するために準備運動を欠かせたら、満足になんて走れやしないんだ」 「うぅ……」 「じゃあ桃香。好きなだけ休んで、走ってみようって思えるくらいに回復したら城壁に来て。出来るだけ体が冷える前のほうがいいけど、どうしても無理そうだったらそのままで。な?」 「う、うん……ひゃあっ!?」 ぐったりな桃香を片手で支えるように抱え上げ、てこてこと歩いて木陰へ。 今日は日差しが強いから、涼しいところの方が回復も速いだろう。 「じゃ、行ってくるな。───思春〜、付き合ってもらっていいかー?」 「構わん」 「よし、それじゃ───あ、張飛〜! 暇してたら一緒に走らないかー!?」 「走るのだー!」 蛇矛を振るい、自身の鍛錬をしていた明らかに暇そうじゃない張飛を勧誘。あっさりノってくれた。 思春は思春でなんだかんだでずっと傍に居てくれるし、誘えば鍛錬に付き合ってくれる。本当にありがたい。 そんな彼女らと石段を登って城壁の上へと登り───走り出す。 右腕が包帯に包まれたままだから、身振りの時点でどうにも違和感が先立つが───それでも全速力で、身体能力が許す限りにひた走る!! 「おー! お兄ちゃん速いのだ! 鈴々も負けないのだ!」 「よし! じゃあ勝負だ張飛!」 「にゃっ! しょーぶなのだーーっ!!」 「…………」 城壁を走る。段差を越え壁を蹴り登り、一歩も譲らぬ激走を思春と張飛とともに繰り広げ。 一周、二週、三週と続け、なおも落ちぬ速度をそのままに、我ぞ我こそと一歩を先んじようとし前へ前へ……!! 「昨日の俺より一歩前へ……! より昨日よりは二歩前へ……! されど三日前よりは四歩も五歩も前へ! 三日を糧とし己を鍛えて理想へ近づく! ……諦めない! 俺は俺に出来ることをこの二日で二歩、三日で数歩を歩みて目指す!」 「……なんか格好いいのだ! 鈴々もえーとえーと……とにかく走るのだ!」 「行こう張飛! 昨日の俺達よりも一歩先の自分を目指して!」 「行くのだお兄ちゃん!」 「…………暑苦しいな」 走るのが楽しくなると、人間のテンションはいろいろと変わるものだ。 それは、何かに夢中になると周りが見えなくなる感覚によく似ている。 そこを素直に思春にツッコまれて、少し苦笑をもらしてしまうが───動かす足は変わらずに速い。 「うりゃりゃりゃりゃりゃーーーーーーっ!!」 「くおっ!? さ、さすが張飛……! けど俺だって明命と一緒に足を鍛えたんだ……! さらに遊びだろうと負けを良しとしないと心に刻んだ! だから絶対に負けない!!《グンッ!》」 「おおーっ!? お兄ちゃんほんとに速いのだ! だったら鈴々も本気でぇ〜〜〜っ!」 「なんだって!? い、今まで本気じゃなかったと───!? フフッ……だったら俺はさらにその上を行く本気を見せてやる!」 「にゃっ!? だったら鈴々はさらにその上をいく本気を見せるのだ!」 「なんの! 俺はさらに……!」 「鈴々はさらに……!」 「いいやさらに!」 「もっとなのだ!」 「俺のほうが───」 「鈴々のほうが───」 『速い(のだ)ーーーーーーッ!!!』 走る走る走る走る走る!! 足に氣を込め石畳を蹴り弾き、前へ前へ一歩でも早く一ミリでも張飛より前へ!! 「うおぉおおおおおっ!!」 「にゃーーーーーーっ!!」 我先に! 否、我こそ先に! そんな言葉がその姿から聞こえてきそうなくらい、俺と張飛は先を目指して駆け続けた。 ───……。 で、ややあって…… 『《ずぅうう〜〜〜ん…………》負けた(のだ)……』 終わってみれば、思春の一人勝ちだった。 結局城壁の上を十週した時点で競い合いは終わり、中庭へと降りてきた俺と張飛は、けろりとしている思春を眺めつつ仲良く肩を落としていた。 「でもお兄ちゃん、なかなかやるなー! 鈴々、男の子であんなに速いの見たことなかったのだ!」 「うん、これでも頑張ってるからな。……っと。桃香ー、ゆっくり休めた───か?」 木陰で休んでいた桃香のもとへ、手を振りながら戻ってみればアラ不思議。 太線の目からたぱーと滝の涙を流し、ふるふるとゆっくり首を横に振るう桃香が居た。 「無理ぃい……無理だよぅぅぅ……私あんなに走れないぃい……」 どうやら自分が至るべき場所へのハードルの高さに泣き出してしまったらしい。 しかし否である。 「桃香、やる前から諦めちゃだめだ。誰だって、というかむしろ俺もあんなに走れなかった」 「だって、だってぇえ〜〜……」 やはりたぱーと涙を流しながら、城壁の上を指差す桃香。 ……うん。その広さ、プライスレス。じゃなくて、学校のグラウンドなにするものぞってくらい広い。 ていうか桃香、丁度指差しているところに立ってる見張り番の兵が驚いてるから、こっち見ながら指差すのやめなさい。 「まずは体力作りだ。祭さん曰く、日に十里を走れるようになれば氣を扱う下準備はとっくに出来てるって」 「じゅっ……!? むむむむ無理無理ぃいいっ!!」 「じゃあ祭さんの教えに従い、俺がやった氣の増幅法を。桃香、氣は使えるか?」 「え? えと……どうだろ。意識したことはあまりないかも」 「そっか。じゃあえっと……」 「《きゅむ》ひゃうっ!? お、おおおお兄さんっ!?」 「ん? どうした?」 氣の感覚を掴ませようと、桃香の手をやさしく握る……と、桃香がびっくりしたように身を竦ませ、手を引いてしまう。 「氣の感覚、感じさせようと思ったんだけど……嫌か?」 「あ、ううん、嫌とかそんなのじゃないんだけど……急に触るからびっくりしたよ〜……」 「───あ、そ、そっか、ごめん」 ここしばらくの出来事で、いろいろと感覚が麻痺してるのかな……。 うーん……呉王の頭を撫でたり、頭突きしたりスープレックスしたり、振り返ってみればいろいろと危険なことをしてるな。 いかんいかん、少し自分を取り戻さないと。 「じゃあ桃香。いいかな?」 「えと…………うん」 差し出した手に、桃香の手が乗せられる。 そこに意識を集中させると同時に、自分の氣を辺りに溶け込ませるように散らす。 散らしてからは桃香を包みこむように集束させてゆき、少しずつゆっくりと、桃香の中にある氣を外側へと引っ張るように………… (あ、これかな?) 桃香を包み込み、手に取った柔らかな手を通し、彼女の中に暖かい光を見た。 今度はその光の在り方に自分の氣を変化させてゆき、内側に眠っているそいつの目を覚まさせるように─── 「わ、わ……? なんだか体が暖かい……?」 「うん、桃香。それが桃香の氣だ」 小さな小さなそれを、彼女の左手の先へと誘導。 体外放出とまではいかないまでも、うっすらと栗色の輝きを放つ左手を彼女自身に見せて、そう呟いた。 「これが私の……わあっ、すごいすごいっ! 鈴々ちゃんほら見てっ? 私の───……あ、あぅ……消えちゃった……」 「〜〜〜……ぷはっ……! はっ……や、だめだっ……誰かの氣の誘導なんて初めてやるけど、これ疲れるっ……!」 桃香の手を静かに離すと、その場に尻餅を着くようにして座りこんだ。 そうして考えると、凪の氣の扱い方っていうのに素直に感心。 魏に戻ったら是非ともいろいろと教えてもらいたい。 ……などと思っていれば、俺の顔に輝く目をした顔を近づけてきて、 「ねぇお兄さん、お兄さんんん〜〜〜……!」 と主語を抜いてねだる桃香さん。 ああ、解る。その気持ちはよ〜〜く解るぞ桃香。 俺も、“自分にも氣が扱えるんだ”って解った時は興奮したものさ。 「だめ。さすがに連続では無理。というか自分でコツを覚えてくれ、頼むから」 しかし飴ばかりをくれてはやれない。 こういうのは自分自身のやる気の問題だからだ。 「うぅうう〜……」 そんな意思が届いたのか、桃香は難しい顔で近づけていた顔を戻し……木の幹の前にちょこんと座り直すと、氣を浮上させようと……してるんだよな? 怒った顔をしてみたり、急に「はーーーっ!」とか言い出したり、色々やってるようだけど。 結局は自分の中の氣を感じることさえ出来なかったようで、再びたぱーと涙を流した。 「おにいさぁああ〜〜〜んん……」 「こ、こらっ、一国の王がそんな情けない声出さないのっ」 「だって、だってぇええ〜〜……」 困ったもので、俺の服をちょこんと抓んでくいくい引っ張りつつ泣かれては、まるで子供におねだりされるパパのような───マテ、俺はまだそんな歳では……そこ、経験だけなら人一倍あるだろうとか言わないっ。 「お姉ちゃん、鈴々が教えてあげるのだっ」 と、困り果てていたところに張飛からの助けが。 両手をぐっと拳にして、ニカッと笑う彼女が今は女神に見えました。 「ほんとっ!? 鈴々ちゃんっ!」 「まっかせるのだー!」 どんっと叩いた胸を張り、早速張飛先生の氣の授業が始まる……! 「まず、うーんってお腹の中に力を入れるのだ!」 「うんっ、えーと……う、うーーーん……!」 「次に、はーーーって込めた力をお腹から体全体に広げるのだ!」 「は、はーーー……!?」 「できたのだ!」 「できないよっ!?」 即答だった。 うん、見事な即答だったよ、桃香。 どうやら張飛は説明とかが苦手なようで……まあたしかに教えるのは難しいよなぁ。 「桃〜香。急ぐと本当に痛い目見るから、まずは体を鍛えないとだめだよ。俺みたいな方法で無理矢理拡張させるってことも出来るけど……軽口で痛みを表現するなら、死ぬほど痛いよ?」 「軽口なのに死ぬほど痛いの!?」 「ああ。一度天からお迎えが来て、危うく死ぬところだったし」 「ひぃいーーーっ!!?」 あ……また泣いた。 「うん。だから徐々にだ。体力の許す限り、教えた柔軟体操を続けてみてくれ。基礎体力がつくし、体も柔らかくなる。一石二鳥だ」 「ぇぅう〜……お兄さん意地悪だよぉ〜〜……鬼ー……」 「鬼で結構。辛くない鍛錬なんて、どうやったって糧になるもんか。一応の経験者が言うんだから、軽くでもいいから受けとってくれ」 「うう……思春さん、手伝ってもらっていいかな……」 「はっ」 少しイジケ気味になりつつも諦めないところは、さすがと言うべきか。 で、俺はといえば…… 「…………《じーー……》」 「え、あ……な、なに? 張飛」 張飛にじーーっと見られておりました。 なんだろうね、居心地悪さは感じないんだけど、嫌な予感が…… 「お兄ちゃん、宴で華雄と戦ってたのだ」 「え? ……ああ、戦えてた、とは言えないかもしれないけどね」 なにせ、避けて避けて、疲れさせたところを武器を弾いただけなんだから。 もしもあれで、華雄が素直に私の負けだとか言わずに「まだまだだぁ!」とか言ってたらと思うと……おおうっ、寒気が……! 「お兄ちゃん、弱いとか言ってたけど華雄に勝ったのだ」 「逃げ回って相手を疲れさせて、不意をついただけ……って言いたいけどね。それじゃあ負けを認めて下がってくれた華雄に失礼か」 「そーなのだっ。だから鈴々とも戦うのだっ」 「そうだな───ってなんで!?」 「“強いやつの戦いを見たら武人として黙っておれん”なのだ!」 「なにその誰かの受け売りそのものみたいな言葉! だ、だめだぞ!? 俺まだ腕が治ってないんだからっ!」 そう言いながら、あとは痛みが引くばかりの完治待ちの腕を庇いつつ下がる。 しかしながら下がった分以上に詰め寄ってくる張飛を前に、顔を引きつらせ─── 「星が言ってたのだ。戦いは終わったけど、“しげき”がないのはつまらないーって。だからお兄ちゃんは鈴々と戦うのだ」 「…………」 あの。理由になってませんよね? それ、趙雲さんの理屈であって張飛の理屈じゃないよね? 「それはえぇと。張飛も刺激が欲しいから、ってことでいいのか?」 「そーなのだ」 「……俺、強くないぞ?」 「強くなければ強くなればいいのだ! だいじょーぶ、戦ってれば勝手に強くなるのだ!」 「無茶言ってますよね!? それ本当に無茶ですよね!?」 「腕が鳴るのだー……!」 言って、ズチャアアア……と重そうな蛇矛を構える張飛さん。 あ、あれ? 待って? 俺、やるなんて言ってませんよね? それがどうして腕が鳴るとか言われてるんでしょうか。 そりゃあたしかに、思春と剣術鍛錬をするため、木刀はバッグごと持ってきてあるけどさっ……! 「さあお兄ちゃん、構えるのだっ」 「………」 ああ……うん。もう逃げ道とか無いんですね? だって物凄くやる気だもの張飛さん。 けどありがたいって受け取ったのも俺であって、都合がついたら鍛錬に付き合ってくれる張飛に今さら「やっぱりいいや」なんて言えるはずもなく─── 「よ、よしっ! それじゃあ鍛錬をお願いする!」 「にゃはは、鈴々にお任せなのだ! それじゃあ……!《ゴゴゴゴゴ……!!》」 「ぬ、ぬう! なんだこの凄まじい闘気は……! あまりの闘気にこの北郷、足が震え───ってわかってるよね!? 実戦形式じゃなくて鍛錬! 鍛錬だよ!? 気構えとかお役立ちの技法とかそういうのを教えるって意図のっ!」 「……だから、戦ってれば適当に身に付くのだ」 ウワーイ強者理論だー! 高頭脳理論と全く同じ事を返された気分だよちくしょー! これを言っちゃう人はとことん他人の“解らない”を知りません! でも、それ以上に“教えてくれる”っていう気持ちを無下にすることを良しとは出来ない俺は、半ばやけっぱちでバッグから突き出ていた竹刀袋から、黒檀木刀を抜き取っていた。 「よしっ……っと、そうだ張飛。戦う前の心構えとかってあるか? こうすると冷静でいられるーとか、こうすると心を乱さずにいられるーとか、なんでもいいんだけど」 「にゃ? んー……と。気持ちで負けちゃだめなのだ!」 「気持ちで? ああ、それはそうだよな」 「うん、だから今から鈴々はお兄ちゃんの敵なのだっ。お兄ちゃん、敵から睨まれたらどうするのだ?」 言って、ギシリと蛇矛を構えて俺を睨む張飛。 威圧感が異常なくらいに感じられるのに、俺を睨む顔が頬を膨らませているもんだからいまいち緊張感が……。 いや、でも覚悟には覚悟を。 睨まれたのなら、その気力に負けじとさらなる気迫を以って───睨み返す!! 「それでいーのだっ。そうしてじ〜〜っと見てたら、相手が弱く見えてくるのだ」 「……なるほど。気迫で相手に勝ってるって自分で思えば、相手もそう感じているって思えるもんな」 「なのだ。相手が鈴々のことを自分より強いって思って、鈴々も相手より自分のほうが強いって思ったら───」 「《ごくり……》お、思ったら……?」 「倒すのだ!」 「倒すのだとな!?」 たお……えぇ!? それだけ!? 気迫で勝って、いや、勝った気になって、戦闘準備が整ったら「おぉ〜りゃ〜」って戦って───終わり!? 流石に唖然。 果たして同じ説明をされて戦場で勝てる人が、この大陸に何人居てくれるのやら……! ………………ああ。なんだか春蘭と季衣あたりなら出来そうな気がした。案外祭さんも頷いてくれるかも。 「あ、あのー……張飛さん? これって───」 「それじゃあ早速実践してみるのだ」 「実践ですって!? え───実践!? 誰と!?」 「鈴々に決まってるのだ」 「《さぁ……っ!》…………」 あ。なんか今、血の気が引く音を聞いた。 実践? 実践と申したか。あの張翼徳を相手に実践と。 「ほら! 教えたようにやってみるのだ!」 さっさと構えちゃってる張飛を前に、溜め息と同時に覚悟を。 キッと睨み、もはや逃げられぬことも理解した上で……氣を充実させ、本気で睨む。 負けない、勝つ、絶対に勝つ。負けなどもはや良しとせぬ。必ず勝つ、負けるものかと。 その気持ちを目に込めるようにして、真っ直ぐに張飛の目の奥を睨みつけた。 蜀に着くまでと、蜀での生活の中でやっていた、暴走した雪蓮のイメージと対峙する時のように。 想像の相手と対峙するだけでも震えてきたんだから、雪蓮のイメージは本当に化け物的だった。 そんな相手と鍛錬をするには、まずは気迫を強くする必要があって───気持ちで負けないって意味では、想像の雪蓮に打ち勝とうとする気概はいいきっかけになったはずだ。 だから、そこで得た経験の全てを今、目の前の張飛に───!! 「───ッ!《カッ!》」 全力で、ぶつける! ───するとどうでしょう。 張飛の顔が、まるで欲しいものを目の前にちらつかされた犬のように輝いて─── 「にゃーーーーっ!!」 「へっ? あ、ヒョォオアァアアアッ!!?《ブフォヂュィンッ!!》ほぎゃああああっ!!?」 一気に間合いが詰められ、というか張飛の射程まで踏み込まれ、攻撃を仕掛けられる。 振るわれた蛇矛をなんとか避けたが……え? あの、鍛錬です……よね? 鍛錬ですよね!? 今髪の毛掠りましたよ!? 張飛さん!? ちょっ……張飛さん!? 「避けたのだ! やっぱりお兄ちゃんは武人なのかー!?」 「避けたのだって……避けなきゃ顔面潰れてるよ!?」 「止める気だったのだ」 「嘘だぁああああっ!! 思い切り振り切ってたじゃないかぁあああっ!!」 やばい! この子、どうしてか知らないけどすごく興奮してる! あの時の雪蓮と違って話は出来そうだけど、出来るからって受け取ってくれるかどうかは別なわけでして……ああもう! 「お兄ちゃんお兄ちゃん、鈴々と勝負してー!? 男なのにあんなふうに睨める人、鈴々初めて会ったのだ!」 はい、受け取るどころか尻尾をブンブン振るう犬のように、ハウハウ言って蛇矛をブンブン振るってます。 イエスと言ったらあの蛇矛が俺の首を取りにきそうです……冗談抜きで。 (……《ごくり》) やるか……? 本気でやるのか、あの張飛と。 右腕は動かそうと思えば動かせないことはないとはいえ、痛みはどうしても付き纏う。 振るったりしない限りは華佗のお陰で痛みは無いが、振るえば痛いのはどうにもならない。 むしろこの短期間でくっついてくれたのは奇跡と言える。 ありがとう華佗、ありがとう凪。 とはいえ、だからこそここで悪化させるのはよろしくない。 よろしくないのに、せっかく英名名高き張翼徳と一戦出来るって場面を逃してしまうのは……うん、大変よろしくないとか思い始めてしまっている。 と、そんなふうに確認してしまったのが運の尽きだった。 「よし解った! 胸借りるぞ張飛!」 「……!《ぱああっ……!》うんっ、来るのだお兄ちゃん!」 ああ……もう引けない。この口が勝手に先走ってしまった。 しかもあんな笑顔で返されたら、今さら“冗談です”だなんて言えるわけもない。 覚悟、決めろよ……一刀。 暴力じゃない……鍛錬だ。得た力を正しく使うためのものだって、頭に刻め。じゃないと、俺は─── 「すぅ……ふっ」 トンッ、と軽く胸をノック。それだけで覚悟は決まった。 決まればあとは速い。 大地に全体重を預けるように低く構え、強く踏み締めた地面を蹴り弾き、一気に詰める! 「にゃっ!? ───せやぁーーっ!!」 途端、振るわれる長柄の武器が呆れるほどの距離を殺し、襲いかかってくる。 張飛までの距離はまだまだあるのに、手に持つ武器の長さ自体が反則じみている。 ならばと、右真横から振るわれるそれ目掛けて駆けつつ、体勢を低くすると同時に氣を纏わせた木刀を両手で支えるように構え───張飛の一撃が直撃するより少し早く上方へと払い、真横に向かう一撃を斜め上へと一気に逸らす!! 「《ミシィッ!!》んんがっ……!!」 支えにしか使わなかったのに、右腕が軋むほどの衝撃。 きっちり逸らしたのに逸らしきれない恐ろしい威力がそこにある。ていうか右腕痛い。もう涙出る。完治してないのに無茶させすぎだ。 けど、それだけの振りだ。よほどに勢い良く振らなければあれほどの威力は出せないはず。 ならば逸らしてやった今こそ好機───だったはずなんだが。 「うりゃーーーーっ!!」 「う、ぇえっ!!?」 戻すのも速すぎ。逸らした甲斐もなく、あっさり戻ってきた袈裟の斬撃に驚愕。 これをなんとか逸らすことで一生を、続く突きを紙一重で躱すことで二生を得て、まるで竜巻のようにやまない連撃を死に物狂いで避け、弾き、逸らし……うわああああ駄目! 駄目だってこれ! 一撃一撃が重すぎる!! 相手の武器が長柄のものなら懐に入り込むのが常套手段だろうけど、それって入り込めればの話だって! あれだけ重そうでいて長いっていうのに、まるでエアバットを振るうみたいにブンブンって……! あ、だ、だめ、もう腕が痺れて───離脱っ!! 「にゃっ!? どうして逃げるのだ!」 「ふっ……ふふふ……さすが、世に謳われた張翼徳……! その武に偽り無しか……!」 「ふえ? なんか褒められたのだ」 うん、息は乱していない。 ひやひやする竜巻の中にあって、これだけ息を乱さないで居れたのは我ながら見事だ。 けど今は腕を休ませるために、それっぽいことを言いつつ休憩。 卑怯者だと笑わば笑え、あのままじゃあ首は飛ばないまでも、確実に怪我はしていた。 ……ああ、補足して言うと、首は飛ばないまでもっていうのは俺の実力とかじゃなくて、加減されるからって意味ね? 「偽りなしならどーするのだ? 降参するの?」 「いや。その武技に敬意を表し、俺も相応の技を以って応えさせてもらおう!」 痺れは落ち着いてきてくれている。 あとはまあ……張飛の気をべつのところに向けられれば。 (ああくそ……こんなことならしっかりと硬気功も教えてもらっておけばよかった) そうすれば防御面の信頼度は相当に上がっただろうに。 「技なのかー!?」 「技なのだー!!」 言って、ヒョンッ……と木刀を回転させ、逆手に。 これに威力ってものがあるかどうかは未だに解らないが、虚を衝く行動にはなるはずだ。 ならばと、木刀を纏っている氣をさらにさらにと増幅させ、身を捻ると……どうか多少でも氣が残りますよーにと願わずにはいられない心境のままに、一閃を放つ!! 「スゥウトッ───ラッシュゥウッ!!」 振るう木刀から金色の剣閃を。 鋭い金属と金属がぶつかり合ったような高音を立てて空を裂くソレは、張飛目掛けて横一文字に飛翔。 それを見て、ますます目を輝かせた張飛は逃げることもせずに蛇矛を構え、あろうことか剣閃目掛けてソレを振るい───バフォォッシャアア!!という轟音とともに、消し去ってみせたのだ。 「お兄ちゃんすごいのだ! 今のどうやって───」 けど。 それはただの囮だ。 もとより気を逸らすことしか望んでなかった上に、張飛は雄々しくも剣閃を破壊することと、剣閃自体に夢中になりすぎていた。 張飛が蛇矛を振り切り、目を輝かせたまま離れた位置に居るであろう俺に意識を向けた時には、俺はもう張飛の目の前まで駆け込んでいた。 「うにゃーっ!?」 驚いて蛇矛を振り戻すが、それも予測済み。 そのまま攻撃するでもなく、勢いのままに跳躍して張飛の背後に回った俺は、慌てて振り向く張飛を後ろから押し倒し───!! 「にゃっ!? にゃはははははぁあーーーーーっ!!!? ややややめるのだぁあーーーーーーっ!!!」 ええはい、くすぐりました。 武で勝てぬのならばやんちゃで勝ってみせましょう。 唐突に身を襲う感覚に蛇矛を落としてしまったのが運の尽き。 俺はニコリと満面の笑みで微笑み、地面に倒れ伏しながら自分の肩越しに俺を見上げる張飛を───……やっぱりくすぐりました。 にゃーーーーーーー………………!!! ───……。 ややあって…… 「にゃ……にゃっ……はふ……」 手入れされた中庭の草むらにて、ぐったりと動かない張飛がいらっしゃいました。 「お疲れさま、張飛」 俺はといえばそんな張飛の頭を胡坐をかいた自分の足に乗せ、頭を撫でていた。 さすがの武人・張飛もくすぐりには耐えられなかったらしく、引きつった笑みを浮かべながら痙攣してらっしゃる。 「お兄ちゃん……むちゃくちゃなのだぁあ〜〜〜……」 もはや喋る言葉も弱々しい。 まあでも……決着の付け方は特に決めてなかったし、これはこれで一本……か? いや、違うだろ、うん。 「まあまあ、殺すつもりで戦ってたわけでもないんだ。こんな決着があってもいいんじゃないかな」 そもそもくすぐられてる間でも、張飛の力なら俺を払いのけることくらい出来ただろうに。 それをしなかったのは怪我をさせないための配慮か、それともそんなことを忘れるくらいくすぐったかったのか。 「…………」 「……にゃ……?」 どっちもってことにしておこっか。 「張飛は強いなぁ。そりゃあ負けるわけにはいかなかったけど、もうちょっと粘れるつもりだった」 「にゃ……? 勝ったのはお兄ちゃんなのだ……」 「いや、残念ながら俺の負け。負けを認めるのは嫌だけど、だからって負けてないって言い張る自分にはなりたくないんだ。あのまま引き下がらずに張飛の攻撃を逸らし続けてたら、倒れてたのは俺だったし」 「《なでなで》にゃー……♪」 笑いすぎの所為か、しっとりと汗を含んだ髪ごと頭を撫でる。 まったく、この小さな体のどこにあれだけの力があるのか。 腕なんてこんなに細いっていうのに……本当にとんでもない。 「んー……残念なのだー……。戦場で、お兄ちゃんと本気で戦ってみたかったのだ……」 「その時に俺が張飛と戦ってたら、一合目で俺死んでるから」 「にゃ? そーなの?」 「そーなの。俺が鍛錬を始めたのは、三国が同盟を組んで───俺が天に帰ってからなんだ。だから戦があった頃の俺なんかが戦場に立てば、味方の邪魔にしかならなかったってこと」 さらさらと頭を撫でながら、きょとんとした顔を見下ろす。 頭を撫でられることも足を枕にすることも嫌がらずに、張飛は少し楽しげだ。 「そーなんだ。でも残念なものは残念なのだ」 「そっか。じゃあ俺がもっともっと強くなれたら、その時は思いっきりやろうか」 「……いいの?」 「もっと強くなれたらな? それまでは鍛錬ってことで」 「解ったのだ! じゃあ鈴々、お兄ちゃんが強くなるまでたくさんたくさん鍛えるのだ!」 「……エ?」 あれ? 今、なんだか光栄に思えるはずの言葉とか、地獄の一丁目が見えそうな言葉とかが同時に聞こえたような気がするんですけど? あ、いやうん、たしかに鍛錬に付き合ってくれるって話はしたよ? 願ったり叶ったりだよね、うん。 でもさ、けどさ、それでもさ。さっきの戦いを振り返るに、彼女……張飛さんたらどんな時でも加減が出来そうにないってイイマスカ……エエト。 「そうと決まればじっとなんてしてられないのだ! お兄ちゃん、構えるのだ!」 言うが早し。 ぴょーんと跳ねて起き上がった張飛は、落ちていた蛇矛を右手一本で拾うと“ゴフォォオゥウンッ……!”と風を巻き込むように振るい、無手の左手を俺へと突き出して構えた。 俺はといえば、「どうしよう」と本気で自然に口からこぼし、自分の言葉に自分が驚く始末。 とりあえず座っていては危険だと立ち上がり、木刀を拾った───その時には、彼女の中では鍛錬は始まっていたようで。 「にゃーーーーーっ!!」 「キャーーーーーッ!?」 地を蹴り襲いかかる張飛を前に、俺は女性のような悲鳴を上げた。 「ままままーーーままま待った待って待ってくれぇえーーーっ!! 張飛さん!? 目がさっきよりもよっぽど本気の目なんですけど!?」 「お兄ちゃん! 鈴々のことは鈴々って呼ぶのだ! 鈴々、お兄ちゃんのこと気に入ったから真名で呼んでほしいのだ!」 「んなっ───……いや。じゃあ俺のことは北郷か一刀で───」 「お兄ちゃんはお兄ちゃんなのだ!」 「や……そう言われる予感はしてたけどね……? ってヒワーーーーッ!?」 言葉で止められるのも多少程度。 「お話は終わり? じゃあいくよー!」と元気良く地面を蹴った小さな武人が、蛇矛片手に再来した。 「張飛っ、いいからひとまず落ち着こう!?」 「む〜……鈴々なのだっ!」 蛇矛が迫る! コマンド───どうするもなにも選択肢一つしかないだろっ! 「りっ……鈴々っ」 「はいなのだ! やぁーーーーっ!!」 「返事しただけ!? 止まってくれぇーーーーっ!!」 思い切り振るうためか、一度引かれた蛇矛が横薙ぎに振るわれる! 「く、くっそ……俺だって避けてばかりじゃないぞっ!」 もう破れかぶれで構わない! せっかく鍛錬(?)に付き合ってくれるっていうなら、それを受け止めずして何が男! 今こそ木刀に氣を込めて、反撃を───……は、はん……はん、げ……ゲェーーーーッ!! 「……あ、あはは……! 剣閃で氣、使い果たしちゃってたぁーーーーっ!!」 もはや笑うしかなかった。 ……この日、僕は再度込み上げる寒気と血の引く音を聞き、桃香が柔軟で苦しそうな声を上げる中───喉から吐き出される本気の絶叫を蜀の国に轟かせたのでした。
ネタ……は、ありそうでなかった? あった気もしたんですけど……ハテ。 とりあえずゲェーーーッ!はキン肉マンチックです。 Next Top Back