49/きみとぼくは似ている 日を跨いで翌日。 張……ではなく鈴々に真名を許してもらい、興奮が冷めてくれない鈴々に散々とボコボコにされたその後。 騒ぎ(むしろ俺の悲鳴)を聞きつけた関羽さんが鈴々を止めてくれるまで続いた、あの恐ろしき鍛錬を思い返すと今も笑顔が引きつる。 結局昨日は錬氣が済むまでは大したことも出来ず、関羽さんに叱られた鈴々を胡坐の上に抱きつつ、桃香が運動する様をじーーっと見てたんだけど。 なんとなく義姉妹三人の力関係が解ったかなーと思いながら、胡坐の上で撫でられるがままに燥ぐ鈴々を、運動しながらも何故か羨ましそうに見ていた桃香。 そんな彼女を、執務室へと続く通路を歩きながら思い出し───やがて、執務室へと到着。 成都での俺の行動は、主に学校建築の手伝い、自身の勉強、蜀の人への頭の回転授業、鍛錬、頼まれることの全て、となっている。 頭の回転授業っていうのは天の国のことを授業として教えて、まずは“考えること”を覚えてもらい、頭の回転速度や柔軟性を鍛えましょうってものだ。 自身の勉強はその名の通り、政務に関してのことや現在の街の様子などを朱里、または雛里に教わり学んでいくこと。 頼まれることの全ては言うまでもなく、命令形式ではない呉での状況、といえばいいのだろうか。 「桃香? 桃香ー? 入っていいかい?」 考え事をしていれば進む足が向かう場所に到達するのも早いもので、目の前の執務室をノックすれば元気な返事が─── 「うぅううえぅぁああぃいいぅぁああ〜〜〜〜…………」 …………。うん。 なんだろう、今ゲームで聞くゾンビのような唸り声が聞こえてきたんだけど。 えーと……これ、大丈夫なのか? 入って大丈夫なのか? 「……失礼します」 立っていても考えていても埒が明くわけでもなく。 「ここまでだ」と言って執務室には入らずに、扉の前で待機する気らしい思春に頷いて返す。 ……さて。 そろそろいいかな〜と包帯をとってある右手をぎしりと動かし……やっぱり少し痛いけど、リハビリも兼ねて身を引きつらせつつ、静かに執務室の扉を開くと中へと入り───……全てを理解した。 「ぁあああぅううう〜〜〜……お兄さぁああ〜〜〜ん…………」 「うおぉおっ!? 桃香っ!?」 執務室の大きな机に座り、ふるふると震えながら涙を流す蜀王さまがいらっしゃった。 べつに机にうず高く書簡が積まれてるとか、仕事が多すぎて泣き入っているとかそういうものではなく。震える手、振り向く速度が異常に遅い首、やっぱりたぱーと流している涙から見るに…… 「ああ……筋肉痛か」 あっさりと答えが出た。 普段からどれだけ運動してなければ、そこまで苦しいのか。 今では初めての筋肉痛なんて思い出せもしないから、悲しいけど桃香、その苦しみは多少しか解らない。 鍛錬を本格的に始めた頃なら、その苦しみもよく解っただろうけど。 「からだがっ……からだがいたいぃいい……」 仕事はそれなりにある。 あるのに、体が思うように動かせずに難儀しているようだ。 それでも机に向かうその姿は、まさに王の姿そのものなのでは……と、軽く感動しました。 「勉強しに来たんだけど……桃香、昨日ちゃんとマッサージしたか?」 「まっさじーってなにぃいい〜〜〜……?」 「……わあ」 しまった。鈴々に振り回されるがまま別れることになったから、マッサージとしか伝えてなかった。 いや、でも普通は体を動かしたらマッサージくらい…………しない人も居るんだね、ごめんなさい。 どうしたものかなと軽く考えて、“今からでも軽くマッサージをするべきか?”と判断。 大きな机の大きな椅子に座る桃香の後ろに回って、相変わらずの太線眼からたぱーと涙を流す彼女に一言断ってから……まずは首から。 「ふひゃあっ!? え、あのお兄さんっ……? まっさじーって……」 「大丈夫、おかしなことはしないから。ちょっとくすぐったいかもしれないけど、それは勘弁して」 「う、うっ……うー……」 首から肩、肩から二の腕を軽く、しかし力を込めるべき箇所には込めて、じっくりと指圧する。 右腕は軽く添えるだけだ。力を入れるとまだ痛いからね。 先に首からやったのは、ここをほぐして暖めてやると、全身が軽く熱を持って暖まるからだ。 あとは背中……首から少し下の部位や、肩甲骨の下、背骨周りなどを軽く済ませて…………うん、ここから先は無理です。 「は……あぁあぅう〜〜〜……なんだろう……体がぽかぽかしてきた……」 「えーとごめん、ここから先はさすがに男の俺には出来ないから。えーとそうだな……扉の前の魏延さーん、続きお願いしていいー?」 どどぉっ! がたっ、ごしゃしゃっ……! 言ってみた直後、扉の外側から激しい物音。そして、静かに開かれる扉の先には本当に魏延さんが。 うわー……適当に言ってみただけなのに本当に居たよ。 「貴様……何故ワタシがここに居ると……」 「なんとなく、場の空気の流れ的にこうくるかなって。それでさ、魏延さん。桃香のマッサージの続きをお願いしたいんだけど」 「何故ワタシが貴様の言うことを聞かなければいけないんだ」 「桃香が苦しんでいるところ、助けてほしいから」 「はっ───桃香さま! 如何されました!? 貴ッ様桃香さまになにをしたぁあっ!」 「えーと……」 この人は、とりあえず俺に怒鳴らないと気が済まないのだろうか。 軽く春蘭を見ているようで、懐かしい気分だ。 「まあまあ。誰がなにをやったか、よりも優先させることってあるだろ? 今、いい具合に体が暖まってきたから、それがまた筋肉痛だけの熱になる前に全身を揉み解してあげないと」 「揉みっ……!? きききさっ───」 「違う違う、やるのは俺じゃなく魏延さん、キミだ」 「《ピタリ》…………ワタシ?」 怪訝そうな顔で、叫ぶのも慌てるのもやめた魏延さんが、マジな顔で訊いてくる。 俺はそれに「そう」と頷いてやると……彼女はお猫様を見つめる明命のようなとろける笑顔を一瞬だけ見せ、ビシィッと表情を引き締めた。 「では桃香さまっ! 奥の部屋でワタシが丹念にっ……!」 「……焔耶ちゃん? なんか顔が怖いよ? お、お兄さぁあ〜〜ん……!!」 「街の警備についての案件なら、多少はこなせると思うし。そこらへんはあとから来る朱里や雛里に聞いておくから、桃香。キミは今はじっくり休むこと。いいね?」 「そ、そーいうんじゃなくて───」 「ささっ、桃香さまっ! そんな男のことはほうっておいて!」 「《がしぃっ!》ひわぅ!? あ、あのっ、焔耶ちゃんっ!? 抱えてくれなくても私、歩くことくらいひぃいやぁあああーーーーー…………!?」 ……バタム。 いっそ男らしい風情で、魏延さんが肩に担いだ桃香を拉致していった。 俺はといえば……閉ざされた扉と遠ざかる悲鳴を微笑みつつ見送り、机に積まれた書簡に目を…………通していいのだろうか。 うん、よくないだろうな。朱里と雛里が来るまで待とうか。 ───……。 ややあって、朱里が登場。 雛里は倉のほうに書物を取りに行っているらしく、遅れるとか。 「はあ……街の警備の案件について、ですか?」 「うん。学校が出来るのもまだ先だし、学校についての情報提供と軽い勉強だけじゃ悪い気がしてさ。何か手伝えることはないかなって考えたら、やっぱり警備隊長に出来ることってそっちのことくらいしかないかな〜って」 「それを含め、学んでもらって桃香さまを支えてほしかったんですけど……そうですね。まずはやり慣れたことから入ってもらって、この国の在り方を学んでもらったほうがいいかもしれません」 で、気になっていたことを相談してみれば、朱里はにこりと笑って頷いてくれた。 それから「少し待っててください」と言って部屋を出て行き、ぱたぱたと戻ってきた朱里は、その後ろに雛里を連れて息を切らしていた。 「そんなに走らなくても……あれ? 雛里は倉の書物を取りに行ってたんじゃ……」 「いいんですっ、ちゃんと必要なものは持ってきましたからっ」 「あ……そ、そう?」 質問を遮るような答えと迫力を前に、つい一歩下がってしまう。 そんな俺に近づき、「ど……どうぞ……」と一つの書物を渡してくれる雛里。 ハテ? と書物を開き、目を通してみれば─── 「あ……これ」 「これまで、街で起きた物事を軽く纏めたものです。さすがに細かく書くときりがないので、本当に軽くですけど……」 「いや、十分だよ。こういうのがあると助かる」 大まかなものとはいえ、これは起きたことを記したものだ。 それに目を通し、一つ一つの事件のことを深く考えていけば、どういったところに不満があってどういったところに穴があるのかも、多少ずつだが見えてくる。 「ありがとう。じゃあ早速───」 ざ、と目を通していく。 軽く纏めたとは言っても字は綺麗で、決して雑に纏められたものじゃない。 その時に必要なことをしっかりと纏めてあるようで、別の国の俺から見ても見事の一言に付す。 ただ、なかなか思うようにはいかなかった部分もあるようで、書かれている文字からも残念さが滲み出ている。 「警邏に出る人は毎回違うんだよね?」 「あ、はい。武に覚えのあるみなさんが交代で出てくれます」 「なるほど……」 最初は雑……これはどこの国も仕方ないことだと思う。 少しずつ改善され、少しずつ民との距離も縮まり、いつしか─── 「なんだかこれ見てると───いつ、どんな時に誰が仲間になったのかが解る気がする」 「……そう、ですね……みなさん、個性が強いですから……」 うっすらと微笑む雛里の言葉にまったくだと頷きながら、書物に目を通してゆく。 某日、街にてメンマ騒動起きる。趙雲さんだねこれ。 某日、荷車をひっくり返した農夫が手助けしてくれる人を探していると、ここに居るぞと叫ぶ少女現る。……馬岱だね。 某日、奇妙な笑い声を上げて道をゆく───袁紹だね。 某日、砂煙を上げて犬の大群から逃げる女性現る……誰だろう、これ。 某日、酒───ああこれは厳顔さんだ間違いない。続きを読む必要もないくらいだ。 某日、街中の食材が少女の軍勢に奪われ、大惨事に。猛獲……かな? 「うーん……」 軽く見ただけでも、民が騒ぎをというよりは将が騒ぎを起こしている気がしてならないんだが。 そりゃあ、魏でもそういうことはしょっちゅうあったというか、むしろ俺は巻き込まれてばかりだったというか。 凪……キミは今どうしてる? 俺はまたいろいろなことに首を突っ込んでは溜め息を吐く毎日の中に居るけど、元気でやっているよ。 真桜と沙和の相手は、慣れ親しんだキミでも大変だろうけど……どうか強く頑張ってくれ。 と。遠くを見るのもこれくらいにしてと。 「ん、うーん……やっぱり右腕が上手く動かないとやりづらい」 包帯は取ってあるものの、持ち上げようとすればキシリと動作が遅れるし、やっぱり痛みは走る。 氣で固定して、通常よりよっぽど早くくっついてくれたとはいえ、無理をすればポキリといってしまうだろう。 うん、気をつけよう。気をつけつつ、早すぎるリハビリを……いやごめん、やっぱり痛いです。 「うーん……」 さっきからうんうん唸ってばかりだね、俺。 気づいてみればなにやら恥ずかしいもので、自分じゃ気づけないけどきっと難しい顔とかしてたに違いな─── 「…………《ほやぁあ〜〜……》」 「…………《ほややぁ〜〜……》」 ……見られてる。 輝く瞳で、しっかり見られてる……。 「あ、あー……あのぉ〜……朱里? 雛里? 前にも訊いたけど、そのぅ……どうして」 「はわぁっ!? みみみ見てないです! 見てないでしゅよ!?」 「あわわっ……朱里ちゃん、落ち着いて朱里ちゃん……っ」 見てないって言われても、ああも輝く瞳で見られたら……ああいや、今はそれよりも役に立てることを探すことが先決だな。 こほんと咳払いをひとつ、書物を読む目に力を込めていった。 ───……。 ところどころで疑問に思ったことを素直に朱里や雛里に訊ねれば、全て頭の中に記憶してあるみたいにすらすらと教えてくれる。 そんな事実に驚きを隠すこともなく、感心と尊敬の念を抱きながらもこの国の過去から現在を学んでゆく。 こうしてしっかりと目を通してみれば、以前桃香が言ったように騒ぎらしい騒ぎはここしばらく起きていないらしい。 起きているのはむしろ楽しげな騒ぎで、それは警邏に出ている将が首を突っ込み、止めなければいけないもの……というものじゃない。 むしろ鈴々あたりなら自ら突っ込んで楽しみそうな、そんな民たちの娯楽のひとつだった。 「へぇ……さすがに将が多いだけあって、色々な場所に手が届いてるなぁ」 「はいっ」 「……その分、将が起こす騒ぎの数も馬鹿にならない、と……」 「あわ……」 両極端だ。 だけど、それでバランスが取れているんだから面白い。 果たして俺なんかの案でそれが改善されるかどうか───ああいや、改善じゃないか。みんながその瞬間をしっかり楽しんだ上でこうして纏まってるのなら、それはきちんと必要なことだ。 「じゃあ朱里、雛里。しばらくお世話になるね。ここはこうしたほうがいいって感じたら、遠慮せずにどんどん言ってくれ」 「はわっ! は、はははいっ、頑張りましゅっ!」 「お役に立てるよう、ししししっかりと……!」 「え? ははっ、この場合役に立たなきゃいけないのは俺のほうだろ? 大丈夫、呉でもそうだったけど……雛里はしっかりといろいろなことが出来てるよ」 むしろ教えてもらう俺自身が、その知識量についていけるかが不安なくらいだ。 鍛錬も勉強も、もっともっと頑張らないと。 ……などと言いつつ、つい雛里の頭を撫でてしまうのは、もはや癖にも似た行動なわけで…… 「…………《じーー……》」 羨ましそうに俺を見上げる朱里の頭も撫でると、これまた嬉しそうに目を細めるんだからたまらない。 ……一応言っておくけど、たまらないっていうのはその、べつにやましい意味でじゃないからな? 朱里や雛里にとってはいい迷惑かもしれないけど、やっぱり保護欲めいたものが沸いてくるのだ。 「じゃ、始めようか……っと、その前に。今さらだけどさ、桃香やこの国に宛てられた案件を、俺なんかが読んでいいのかな」 「はい、そちらのことは私と雛里ちゃんで判断するので、大丈夫だと思ったものを渡しますね?」 「うん、よろしく」 「はい……♪」 さあっ、気を引き締めていこうか。 「まずはこれを」と渡されたものに目を通し、今の蜀というものを片っ端から叩き込んでゆく。 もちろん一つを読んだだけで全てが解るはずもなく、「それを読み終えたらこれを」と渡されたものにも目を通してゆく。 途中、雛里が用意してくれた椅子に座り、渡されるままに書簡書物に目を通し、疑問点や書簡では解らないことについてはきちんと質問を投げて。 そうしたことがしばらく続き、いつしか質問の数も減ってくると……巻かれた書簡を解く音や巻く音、書物をめくる音や閉じる音だけが室内に響くようになる。 (……ふんふん……) さすがは諸葛孔明。 今俺に必要だと思われるものから最善を選び、提供してくれたお陰で必要以上に時間をかけることなく地盤を知ることが出来た。 といっても、もう大分時間は経っているんだろうけど。 意識が集中してくると、不思議と話す声も小声になったりして、続く書簡や書物を持ってきてくれた雛里に軽い質問を投げかける時も、どうしてか小声な自分に笑みがこぼれた。 「……♪」 それは雛里も同じようで、べつに悪いことをしているわけでもないのに、今この場で声を出すことが悪いことみたいに感じられて……うん、それがなんでか無性におかしかった。 そんな小さな笑みに朱里が気づくと、ぱたぱたと静かに駆けてきて話に混ざる。混ざるのに小声なので、また可笑しくて笑う。 そうしたことを続けていたら、いつの間にか朱里と雛里が俺の傍で作業をするようになって─── 「……ここに書いてある騒ぎってさ……」 「……? はい……この日は大変でして……」 「鈴々ちゃんと……恋さんが……その……点心大食い対決をしちゃったんです……」 「うわぁ……」 小声でも、声をかければ届く範囲で行動し、いつの間にか小さな丸テーブル……じゃないな、机を用意して、それを囲うようにして座っていた。もちろん椅子に。 そこに並べられた書簡や文献をもとに、俺にも解りやすいように説明をしてくれるわけだが……助かるけど、いいのかこれって。 執務室に勝手に別の机を用意とか……まあ邪魔にならない範囲ならいいんだろうし、注意を投げかけるべき桃香も居ないし……そういえば奥の部屋に行ってから随分経つよな。 魏延さんも一度も戻ってこないし。何やってるんだろう。こんなにたっぷりとマッサージしてるとしたら、逆に辛くならないだろうか。 「……そういえば朱里……あっちの扉の奥にはさ……なにがあるんだ?」 「はわ……? あ、えと……寝台など、少し体を休めるための用意が……」 「あ……なるほど、だから……」 「……? だから……?」 「あ……いや……なんでもない……」 小声状態は今も続いている。 いい加減やめてもいいんだろうけど、一度こういうものを始めてしまうとほら、一番最初にやめた人が負けたみたいな気分になるだろ? それがたとえ遊びだろうと、もはやこの北郷一刀……負けることを良しとしません。大人げ無くても、こういう僅かな一歩から覚悟っていうのは固まっていくに違いないのだから。 なもんだから、自然と小声は沈黙へと変わり、渡してくれる書物の内容が解りやすく纏めてあることもあってか、時間を忘れてゆったりリズム……ではなく、没頭していた。 途中、くきゅ〜と鳴った可愛い音に、微笑みと恥ずかしさとの表情を見合わせて休憩がてらに食事へ。 用意された食事に舌を躍らせていると魏延さんが厨房に飛び込んできて、食事を手に取ると物凄い速度で走り去る、という謎の出来事もあったものの。 食事が終わると再び机に向かい、今日という日の全てを蜀という国を知ることに費やした。 「ん、ん〜〜……っはぁああ〜〜〜……読んだなぁあ〜〜……」 いつの間にか暗くなってしまっている外の景色を椅子から眺め、ぐぅっと伸びをする。 いい加減夜も遅いのだろう、切り上げないと二人に迷惑が───……あ、あれ? なんで二人とも、「あ……」って感じに口を───あっ。 「…………負けました」 「はわぁっ!? いえあの勝ち負けとかべつに決めてませんでしたからっ」 「あの……ただ、そんな空気だったから……静かにしていただけですし……っ」 伸びをする瞬間に、つい声量のことを忘れた。 気づけば俺は敗北を喫していて、素直に負けを認めていたさ……。 というか二人もやっぱり同じ気持ちだったのか、大きな声を出したら負けーって。 うう……二人のやさしさが染みるなぁ……。 「……ありがと。うん、元気になった」 「はわ……」 「あわわぁ……」 感謝をすると同時に撫でてしまう……もう、本当に癖だ。 なんとかしないと、いつか親しくない人の頭も撫でてしまいそうで怖い。 つっ……と……右腕はやっぱり痛むけどね……。 「あの、ところでさ。奥の部屋に桃香と魏延さんが居るはずなんだけど、そろそろ呼んだほうがいい……よな?」 「え───いらっしゃったんですかっ!? てっきり、一刀さんが代わりを努めるから居ないものだとばかり───!」 「あわ……わ、私も……っ」 「蜀に来て一月も経ってないのに王の代わりが出来るわけないよね!? 違うからっ! ……あ、あーほら、昨日さ。桃香、運動してたから。今日はどうやら筋肉痛らしくて奥で休んでもらうことにしたんだ。付き添いに魏延さんが居るから、安心してたんだけど───食事を取りに来る以外、ちっとも出て来ないから心配で」 大丈夫なんだろうか。 筋肉痛なんだから、休んでればいずれ治るものだけど───俺は氣で和らげるのに慣れちゃったから、少し感覚が鈍ってたのかも。 ちゃんと気にしてやらないとだめだよな。 そうさ、呉に居た時と同じだよ。この国に居る限りは、この国に尽くそう。 そして、国に尽くすのならば王の身を案ずるのも務めにして然であるべきこと。 ははっ……それ以前に、友達なら心配するのも当然だ。 浮かんだ思考にそうして笑みを浮かべて、奥へと続く扉の前までをタタトッ……と軽く小走りすると、これまた軽くノックをしてみた。 果たして眠っているのか起きているのか、そんなどうでもいいような答えを探して微笑む子供のように。 「〜〜〜っ!? ーーーーッ!!」 ……しかしー……返ってきたのは「どうぞー」なんて返事ではなく、大いに慌てた魏延さんらしき人の悲鳴だった。 次いでどんがらがっしゃーんとお約束のような倒壊音と、その中から聞こえる微かな桃香の悲鳴───悲鳴!? 「桃香!《がしズキィーーーン!!》うわぁあっだぁああーーーーーっ!!!」 どうかこの愚か者を笑ってやってください。 悲鳴が聞こえた瞬間に、完治していない右腕で扉を思いきり開け放とうとした結果がこの絶叫です。 あまりの痛みに扉から離れ、蹲りそうになる俺を心配して、朱里と雛里が駆け寄ってきてくれる。 そんな二人に「俺よりも桃香を」と扉の先を促した。 「ひゃ、ひゃいっ」 俺の必死さが伝わったんだろう。 朱里はすぐにこくりと頷くと(俺は背を向けているから解らないが)奥の部屋へと続く扉の前に立ち、一気に開け放った───! 「あ」 「はわっ!?」 ハテ? と……困惑と驚愕が混ざったような声に振り向きかけるが、本能が俺に“振り向けば死ぬだけである”と知らせた。 その直後だ。 「はわゎわわわわぁああーーーーーーっ!!!」 「うわっ、わわわぁあーーーーーっ!!!」 「はわっ! はわっ! はわゎーーーーーっ!!!」 「うわっ、わっ、わぁあーーーっ!!」 「はわっはわわわはわわわわぁあーーーーーっ!!!」 朱里と魏延さんの悲鳴が、執務室に響き渡った。 ……あとで固まっていた雛里に聞いたところ。 なんでも魏延さんは動けない桃香の体を、その……拭いてあげていたらしい。 マッサージで暖かくなった体は、そりゃあどうしても汗を掻くってもので。それを拭いたりしていたところを、丁度朱里が開け放ってしまったのだとか。 それ以外の時間は、たっぷり時間をかけて痛くない程度のマッサージを続けていたんだとか。 ああ……俺が開けていたら今度こそ殺されていただろうね……振り向くこともしないでよかった。 なにせ体を拭いていたってことは、桃香はその……あれだ。着衣を肌蹴ていたわけで。そんな時に俺が開けたりなんかしたら───……ああ、首がやけに気になるなぁ……はは……。 ちなみに、女同士だというのに彼女が叫んだ理由は、桃香の胸が予想以上に大きかったこととか魏延さんが鼻血を出しながら拭いてたこととか、いろいろあってのことらしい。 俺と彼女らが結盟することに至った書物の内容による妄想が、主な原因であることは想像に容易いけど。 (ありがとう雪蓮、キミに折られたこの腕は、俺の命を救ってくれたよ。とても複雑な気分だけど、ありがとう) ……と、爽やかにしめたつもりだったんだけど、後でしっかりと怒られました。主に桃香に。 ───……。 再び日を跨いだ翌日。 散々揉まれ、散々休んだ桃香は健気にも仕事に復帰し、カクカク震えながらも政務に励んでいた。 本人曰く、「自分で招いた辛さを言い訳に休みたくない」だそうで、むしろ多少強引に休ませてしまった俺を怒ったくらいだ。 ……便乗して、何故か魏延さんにも「そうだそうだ」と怒られたけど。俺、彼女に対して気に障ることしたっけ……? 「……ふぅ」 ともあれ、そんな翌日。 昨日に続き今日も執務室にお邪魔し、そう難しくない案件の処理を頼まれるがままにこなし、その量に溜め息を吐く。 朱里と雛里は学校建設現場に行っていて、今はここに居ない。 そんな事実に少しの不安を抱きながら、小さなことから確実に処理していっている。 そう難しくないものだからこそ数が多く、簡単に見えても相手にとっては大変なものが多いからこそ手が抜けない。 もちろん手抜きをする気なんて最初からないけど、これは本当に大変だ。内容よりも量だけで目が回る。 そう思いながらも一つ一つにきちんと目を通して、どう対処すべきかを真剣に考える。 呉に居た時は、猫の保護から作物の収穫、子供の相手から老人の相手と、どんなものでも全力で付き合わされた。 それを思えばこういった小さなことだろうと、どれほど国にとって大切なことなのかも解るってもので───それが自国のものじゃないってだけでも余計に慎重に、って思える。 「んー……うん、うん……よし」 他国から学べることっていうのはたくさんある。 それはどんな些細なことからでも、どんな大きな出来事からでもだ。 当然と言えるほど胸を張れもしないんだけど、俺からの知識でも蜀にとっての肥やしになる部分はあってくれたらしく、天の国の知識を生かしての問題改善は意外なほどに役立っていた。 「桃香、これチェック……じゃなかった、確認よろしく」 「うんっ、えーと……あははっ♪」 「え……な、なんだ? おかしなところとかあったか?」 「あ、ううんっ、全然平気だよっ? ただ、私だったらこうするなーって思えることを、ずばーって決めちゃうからすごいなーって。朱里ちゃんや雛里ちゃんが薦めるのも解るかなー……って感心してたの」 「……言われても実感は沸かないかなぁ」 自分自身っていうものが見えている。 桃香たちが褒めるのは天の知識であって、俺が懸命に考えて、長い年月をかけて出したものじゃない。 俺からしてみれば、先人の知恵を我が者顔でひけらかしているようで、それを褒められると小骨が喉に刺さったような息苦しさが現れる。 だから俺は付け足すのだ。受け売りだけどね、と。 「うん、うんうん……わ、ぁあっ……!? やってみたいこととかこう出来たらってところ、全部解決してる……! お、お兄さんって本当に、警備隊長さんってだけだったのっ?」 早速任された簡単な案件の整理を預かり、確認をしてもらえば驚かれる。 そんな桃香にどう反応を返していいか、戸惑ったりもするわけで。 「ん。警備隊の隊長やってた。優秀な部下に恵まれて、優秀な兵にも恵まれて。俺にはもったいないくらいの役職だったけど、否定するつもりもないくらいに素晴らしい仕事だったよ」 言いながら笑う。 魏のことを思い返すと、それが悲しい思い出でもない限りは、大抵笑えるんだから凄い。 そんな笑顔な俺を真っ直ぐに見て、少し顎に手を当てた桃香が言う。 「あのね、お兄さん。ひとつ訊きたいんだけど……───呉でさ、“どうして呉に降りてくれなかったの”とか言われたりしなかった?」 それは軽い質問だった。本当に、世間話でもしましょうってくらいの。 黙る理由も嘘をつく理由もない。だから俺も軽く答えた。言われたよって。 すると……うん、地雷って何処にでもあるのカナーとか思ってしまったわけで。 「じゃあ私もっ。どうして蜀に……ううん、私達の前に降りてきてくれなかったの?」 「え゙ッ……」 こんな話をすれば、同じ質問をされる予想すら出来なかったのか? と脳内孟徳さんにツッコまれた気がした。 とはいえ答えないわけにもいかず、俺はしっかりと言葉を選んだ上、かつてのことを話し始めた。 そもそも降りる場所を選べなかったことや、あの時点で自分が生き残る術は、華琳に拾われる以外にはなかったんじゃないかってこと。 さらに趙雲さんや風や稟には華琳と会う前に出会っていたけど、たとえその三人についていってたとしても、きっとなんの役にも立てなかったと。 「え〜? なんの役にも立てないなんて、そんなことないよぉ〜っ」 で、言ってみれば怒られた。 ぷんすかという言葉が似合ってそうな風情……頬を膨らませてのお叱りだ。 けれど俺はそれに待ったをかけ、こうして政務を手伝えるのは魏で働いた経験と、天で勉強や鍛錬をしたからだと補足する。 たしかに以前の俺でも手伝えることはあっただろうけど、何かにつけてサボっている自分がありありと想像できるんだから……“そんなことない”と言われるのは逆に心苦しい。 「呉に居る時にも思ったことだけどさ。たしかに魏以外の場所に降りてたら、とは思うんだ。呉に降りて雪蓮と悲願達成をと躍起になってたのか、蜀に降りて一緒に頑張ってたのかな〜って。華琳に認められるのでさえ一苦労だったんだから、そう簡単にいくものだなんて思えない」 想像してみても、深いイメージが出来なかったりする。 それは、どういった国かを理解した呉でさえ同じで、軽いイメージは出来ても……ど〜にも自分が役立っているイメージが沸かないのだ。 そもそも蜀に降りた時点で、なんとなく鈴々や桃香とは仲良くなれそうだけど……関羽さんが心を許してくれるイメージが全ッ然沸かない。 「……でも、とは思うけどさ」 「《くしゃっ……》わぷっ!? え、わ……お、兄さ……?」 蜀に俺が降りたとして、蜀全体と言わずに彼女……桃香だけにしてあげられることがあるとすれば、民のため兵のため将のためにと頑張りすぎる彼女の負担を、軽く担ってやるくらい……なんだと思う。 きっと桃香は“辛い”とは言わないから、言わない分だけ何も言わずに支えてやる。 ……来て間も無いから、誰がどういった性格なのかなんてのは把握しきれていないけど───彼女はやさしいから、きっと色々なものを背負おうとするだろう。 彼女が目指した理想は、たしかに眩しかった。あの乱世の頃、世界の在り方に苦しむ民たちならば誰もが望んだであろう世界だ。 そんな徳と情とを持って乱世を進み、この国に居るみんなの信頼を得た上でこうして立っている。 だからといって、俺に撫でられている彼女を見れば……威厳らしい威厳はなく、こんな小さな体にたくさんの期待や責任を背負ってここまで来たのだ。 じゃあ。たとえば俺が彼女の前に御遣いとして降りたとして、彼女を支えながら出来ることっていうのはなんだろう。 どうすれば、彼女は背負いすぎずに頑張れただろうか。 「………」 「《なでなで……》……」 考えてみたところで答えなんて出ないか。 “そうであった時”に懸命に考えて出した答えじゃなければ、きっと彼女は救われない。 だったらせめて───ここまでを頑張ってきた彼女を労うためにも。 「……ごめんな。きっと、桃香の前に降りてこれたなら……色んなことを支えてやれたと思う。色んなことで、一緒に悩んでやれたと思う。大変な仕事を終えるたびに、お疲れ様って労えた。悲しいことが起こるたびに、もっともっと頑張ろうって励ませた。それ以外で役に立てる自分が想像出来ないけどさ……必要な時に寄りかかれる場所があるのって、きっと……凄くありがたいことだから」 「………」 頭を撫でる。 やさしく、やさしく。 今までの道を頑張ってきたねと言うかのように、慈しむように。 纏めた案件のチェックを頼みに来たのに、座る彼女の傍に立ってすることが頭を撫でること、なんてヘンな話だけど───それでも。 雪蓮にも言えることだけど、半端な覚悟で挑んだわけじゃないんだ。 その頑張りの分だけ、目指した理想の分だけ、誰かに頑張ったねって言われないのは寂しいって思ったんだ。 それこそ下手な同情なのかもしれない。余計なお世話だって言われることだろうけど、それでも。 「……私……私、ね……?」 「うん?」 「どうして華琳さんが……お兄さんを傍に置いておいたのか、解る気がする……」 「……うーん……あまり聞きたくないような」 「だめだよー? 国の王の頭を急に撫でたりしたんだから、ちゃーんと聞いてもらいますっ」 「……やれやれ。かしこまりました、蜀王様」 「あははっ」 苦笑を漏らすでもなく、ただ撫でるのをやめると悲しそうな顔をするので、結局撫でながらの話になる。 けれど長い話があるわけでもなく、ただ桃香は「……国の王ってね、なってみると……結構寂しいんだよ」……とだけ漏らした。 寂しい……か。 民から向けられる視線、兵から、将から向けられる視線。 それは王を見る視線ばかりであって、対等の者は居ない。 いくら仲間だどうだと言ったところで、みんな敬語で話して、やっぱりどこか一線を引いている。 慕われていることが嫌だというんじゃない。 ただ、みんなが仲良く暮らせる世界を夢見た彼女だからこそ、こんな身近にある一線が心のどこかで寂しかった。 こうして頭を撫でてくれる人もおらず、一緒に笑ってくれる人はたくさん居ても、甘えさせてくれる人なんて居やしない。 (ああ……そっか) 朱里と雛里が、撫でてもらえないことにあんなに落胆していた理由が、少しだけ解った。 あの乱世にあって、甘えを捨てなきゃ生きていけないような日々を過ごし……けれど、結局どれほど追求したところで彼女たちはまだまだ子供に近しかった。 甘えられる場所も肩を寄りかからせる場所も知らず、王が目指す理想へと邁進する……そんな日々を送っていた。 臣下は王に寄りかかれる。己の武や知識を対価とし、寄りかかっていられる。 じゃあ王はどうだ? 責任ある者として気高く立ち、臣下を不安に思わせないためにも胸を張っていなければいけない。 仲間だ友達だとどれだけ言っても、きっと桃香は無茶をする。 こういう娘は、ほぼ間違い無く。 「…………まったく」 「《わしゃしゃっ》わぷぷっ!? お、お兄さんっ!?」 それじゃああまりに報われない。 勝っていれば、きっと報われていたんだろうが……勝ったのは華琳だ、桃香じゃない。 ああ……本当に、下手な同情だ。 こんなことをしても、ようやく落ち着いた傷口を開くことになるんだろうに、そうしようとする自分が止められない。 「───桃香」 「《とんっ……》……ふぇ……?」 わしゃわしゃと軽く掻き乱した桃香の頭を、そっと胸に抱いた。 彼女が座る椅子の横から、軽く身を引き寄せるように。 そして、やさしくやさしく撫でてゆく。 不安も悲しさも包み込んであげられるよう、彼女を自分の氣でやさしく包み込んで。 「………」 「………」 かけてあげる言葉があるわけじゃない。 ただ、伝えたいことを行動で示し、どこまでもやさしく彼女の頭を撫でていた。 思い出されるのは趙雲さんの言葉だ。 いつか、自分の理想を実現出来なかったことに、自分の力不足に泣いたという彼女の話。 それを思うと胸が苦しくて、こうせずにはいられなかった。 ああ……本当に、彼女と俺は似ている。 やりたいことはたしかにあるのに、力が足りない自分に嘆く。 何も出来ずに歯噛みする自分が嫌なのに、どうしたらソレが出来るのかが自分には解らない。 だから勉強するのに、必要なことはいつも自分の知識より高い位置にあって……苦しくて、涙する。 「……あの、ね……? お兄さん……」 「うん……?」 「私……王だけど……。いっつも……みんなのために笑顔でいようって決めてたけど、さ……」 「うん……」 「いい、のかな……。友達の前でなら……。いいの、かな……王なのに……」 震えている。 腕の中で、発する言葉さえ震わせて。 だから言ってやる。 親しくなったばかりの俺だろうが、こんなにも似ている俺だからこそ─── 「……当たり前だよ。全部受け止めてやる。だから桃香も、背負い込みすぎないの。もっと頼って、もっと寄りかかっていいと思うぞ? というか、みんなもきっとそれを望んで《ぎゅっ……!》っと……」 「〜〜〜〜っ……ふ、ぐっ……うっ……うぅう〜〜……!!」 「……まったく。こういう時は、大声をあげて泣くところだろ? やられたらやられたで、魏延さんか関羽さんが突撃してきそうだけど」 声を殺して泣くことに、小さく怒ってやるが───それ以外に怒ることなんてない。 俺の胸に顔を押し付けて、声を殺す以外は我慢することなく、存分に泣く桃香の頭を……ただただやさしく撫でていた。 “来て早々に王様泣かすなんて”と大変なことをしてる自覚を抱きつつ、乱世の最中に心に傷を負ったのは、なにも民や兵だけではないことを改めて実感した。 関わった人全てがいろいろな傷を負って、それでも今より先を目指して生きる。 そういった人は支えがあったり、寄りかかれる人が居たりするから出来る人が多い。 でも、王っていうのは慕われている分だけ孤独だ。 対等な人は居なくて、敬語で話される分だけ、いつの間にか心に線が引かれている。 じゃあ、そんな線を軽々しく越えられる存在はあるのか、といえば……俺みたいに図々しい人が、まず挙がるんだろう。 ……言ってはなんだけど、朱里と雛里が居なくてよかった。 居たら、存分に泣けなかっただろうから。 ───……。 嗚咽も治まり、指で涙を拭ってやってしばらく。 目を真っ赤にした桃香は、少し恥ずかしそうにして俯いていた。 彼女が座る椅子にも目の前の机にも涙のあとはなく、ただ俺の制服には……こう、びっしょりと涙の痕が。 「ごめんなさいぃ……」 ひどくしょんぼりだった。 そんな彼女の頭をあっはっはーと笑い飛ばしつつ撫でて、気にしない気にしないと言ってやる。 「あーあ……無理してるつもりなんて、なかったのになー……」 乱れた髪を直しながら、彼女はぽつりと呟く。 言わせてもらえば、そういった呟き自体が無理でも我慢でもあるわけだが───言わないでおくべきだろう。 下手なことを言って“呟くこと”さえ我慢されては、これから先が思いやられる。 そんなことを考えていて、桃香の椅子の横でぼ〜っと天井を仰いでいた俺を不思議に思ったのかどうなのか。 桃香が言葉を投げかけてきた。 「あの、お兄さん? なんとなくこういうの手慣れてるようだったけど……もしかして他の人にもやってあげたりしたの?」 「手慣っ……いや、確かに似たようなことをしたことはあったけど」 「むー……誰? 誰にやっちゃったの?」 「………」 あの……桃香さん? どうして少し怒ってらっしゃるの? しかも“やっちゃったの?”って……キミの前にやった人への言い方なのでしょうかそれは。 「雪蓮と……それから蓮華。頭を抱き寄せるって意味では雪蓮で、甘えてもいいよって意味では蓮華。……そういえば、どっちもって意味では桃香が初めてか」 そもそもが華琳にしてもらったことの真似事みたいなものだ。 力が抜けて、座りこんだところで頭を抱き寄せられたっけ。 ……随分と落ち着いたんだよな、あの時。震えがピタって止まったんだから。 「……あの。お兄さん」 「うん? なに?」 ハッと思考から戻ってみれば、桃香が不安そうに俺を見上げていた。 いつからそうしていたのか、手は俺の服を掴んでいて…… 「私、甘えてもいいのかな。本当はもっともっと頑張らなきゃいけないのに……誰かに甘えるなんて……。戦があったときだって、何も出来ないで見てるだけだった私だよ? みんなに頼りっきりで、なにも出来なかったのに……こんな時だけ、いいのかな」 きっと、想像以上の葛藤が彼女の中にはある。 それは俺が想像するよりも、将が想像するよりも、そして彼女自身が想像するよりも大きなものだ。 だけど、だからこそ言ってやる。それは難しいことなんかじゃないって笑い飛ばせるくらい簡単に。 「甘えていいに決まってるだろ? 戦は出来なかったとしても、その分他の面で支えてあげられたはずだ。自分が知っている以外の様々で、桃香はみんなを助けてこれたはずだ。そうじゃなきゃ、蜀のみんなが桃香の傍に居るわけがない」 「そう……なのかな……」 「そうなの。だから思う存分甘えるべきだ。我が儘でもいい、そうしたいって思ったことに夢中になるのもいい。桃香はもっと周りに甘えてみるといいよ。そうすれば───」 「あ、ううん、そういうのじゃないのっ。私がその、言いたいのは───」 「……へ?」 きゅっ……と、握られる服に力が込められるのが解る。 あ、あれ……? 妙ぞ……こはいかなること……? どこからか解らないけど、地雷の香りが……! 「みんなにはもう、十分すぎるほど甘えてる。みんなはそんな私を許してくれるし、私も嬉しいけど……あのね、そういうのじゃないの。多分、雪蓮さんも……」 「……どういうこと? ちょっとよく解らないんだけど」 「あ、あのねっ、お兄さん。甘えるっていうのは、その……“国の王”でも甘えられる人って意味で……それはきっと、“天からの御遣い様”のお兄さんにしか出来ないことで……」 「…………」 ……どうしましょう。 今の俺、笑顔のまま固まってしまってます。 そうだ、考えてみればそうだった。 国の王として期待され望まれて色々なものを背負ってるんだ。 甘えたいのは少女としての桃香であり王としての桃香だ。 少女としての桃香が将のみんなに甘えられてるんだとしたら、俺に望んで泣き出した理由、っていうのはとどのつまり───…………わあ、俺が“当たり前だ”って言って泣かせてしまった時点で、もう断れないわけですね? ならばもはやこの北郷、迷いはしません。 それが受け止めると決めた俺の責任ならば、俺はそれを覚悟として受け容れよう。 「《くしゃり……》わ……? お兄さん?」 「解った。王様でもなんでも受け止めてやる。ただし、甘えるだけしかしない王様は勘弁だぞ?」 「あははー、うん。それは大丈夫だよ。大変だとは思うけど、嫌だって思ったことなんてないもん。華琳さんは王になるべきじゃあなかったって言ったけどね、それでも……私は良かったって思えるよ。弱音を吐いたらきりがないけど」 「そっか」 「《なでなでなで……》はうぅ……く、くすぐったいよぅお兄さんっ……」 しょんぼりが完全に無くなるまで、じっくりたっぷり、しかしやさしく頭を撫でる。 言葉の通りくすぐったそうにしていたけれど、嫌がらない限りはそうするつもりだった。 「……ところで桃香? 随分とまあ今さらなんだけどさ。俺のことなんて大して知ってないだろ? いいのか? 友達〜なんて言ったりして」 「《なでなで》……うーん……えっと。お話だけでならいろいろ知ってるよ? 魏のみんなと話してると、大体お兄さんのお話になるし。許昌の街を歩くだけでも、城を歩くだけでもお兄さんのことは耳に入るんだよ?」 「ウワー……」 話しながらも撫でるのをやめません。 しょんぼりはもう無くなってたけど、もういいと言われるまでは続けようかなと撫でているんだが……ハテ。一向に言われるような気配がないのはどうしてだろう。 「それ、恋にも聞いたんだけど……どんな噂なんだ?」 「《なでなで……》ん、んー……そうだね。ぜ〜〜んぶ本当のこと。嘘なんて一つもなかったよ、うん」 「いや、そうじゃなくて内容は───」 「《なでなで》えへへー、秘密〜♪ ただお兄さんは、街のみんなにも兵のみんなにも将のみんなにも、大切に思われてたってことだけだよ」 「大切、ねぇ……」 一部が物凄い勢いで俺を亡き者にしようとしてるんですけど。 主に華琳大好きのネコミミフードっぽいものを被った軍師様とか。 「それに今じゃ、呉から来る商人さんからの噂も凄いんだよー? ひと騒動あったらしいけど、それからすっごく賑やかになったって」 「………」 刺された甲斐があった、って言っていいんでしょうか。 悲しいことに、刺されなきゃあ親父は“人を刺す恐怖”っていうのを知ることができなかった。 それだけで街や邑の全てが治まってくれたわけじゃないけど、きっかけはあれと、親父の言葉だったんだろうし。 ……うん、痛かったけど、やっぱりあれはあれでよかったんだ。 「そんなお兄さんだもん。私はお友達になれて、とっても嬉し───あれ? ……そうだよっ、私まだお兄さんから友達だって聞いてないよっ?」 「エ? ……言ってなかったっけ?」 「言ってない、言ってないよ〜! 宴の時は、私が“男の人の友達は初めてかも〜”って言っただけで……ほら〜!」 「……言われてみれば」 辿ってみても、俺から友達だなんて言った覚えはありませんでした。 しかも“手を繋ぐ=友達”っていうのは、出発前に季衣と流琉との会話の中で思いついたもの。 友達集め自体が呉から始まったことだから、深く意識してなかったのも仕方ない……大変失礼な話ではあるけど。 「うん。それじゃあ……改めて。姓が北郷で名が一刀。字も真名も無いところから来た。北郷か一刀か、好きなように呼んでほしい。……桃香。俺と友達になってくれるか?」 言って、敢えて痛みが残る右手を差し出───した途端、その手が彼女の両手で包まれた。 「もちろんだよっ」と元気に頷く様を間近で、しかも真正面で見ると、意外と恥ずかしい……ああいや、恥ずかしいとは違う……照れか? これ。 ともかく照れとも恥ずかしさともとれない気持ちが渦巻いて、まともに桃香の笑顔を見れな……いいや見る。ここで目を逸らすのは友達に失礼だ。 と、“何に対して意地になってるんだろう”と心の中でセルフツッコミをしてる内でも、桃香は本当に嬉しそうに俺の手を上下に振るって─── 「いたったたたたたたた!!? 桃香ちょっと桃香っ!」 「うひゃああっ!? ご、ごめんなさいーーーっ!!」 振り回したソレが“つい昨日まで包帯を巻いていた腕”だと知ると、例のごとく泣き顔めいた表情になり……そんな、どこまでも自然体な彼女を見て、俺も笑った。 ああもう、本当に……人の毒気を抜くのがなんて上手いんだろうか。 ……いいや、上手いとかじゃなく天然なのか。 彼女に対しても蜀って国に対しても、毒気なんてそりゃあ持ってなかったけど───やっぱりだめだな、初めての場所じゃあ緊張してしまう。 そんな緊張をあっさり取ってしまうんだから、徳で知られる玄徳様は本当に、色んな意味で愉快だ。 「……えへへー♪」 呆れも半分(自分への)、軽く天井を仰いでいると、椅子に座ったままの桃香が俺の腕にしがみついてくる。 ご丁寧に、ってどうしてつけるのかは脳内に問うてほしいが、ご丁寧に恋のように顔を摺り寄せて。 ……何事? と思いつつ、なんとなく頭を撫でてみると……ほやぁ〜とした嬉しそうな笑顔が俺を見上げた。 なるほど、どうやら甘えている最中らしい。 「桃香サン? 魏延さんか関羽さんあたりに見られたら俺の首が飛ぶから、そういう直接的な甘え方は勘弁してほしいんだけど」 「……だめ?」 笑顔が、親に突き放された子供のような顔に変わる。 思わず息を飲むと同時に胸が痛むが……ああもう、受け止めてやるって言った手前、なんて断りづらい。 「見つかった時の説明なんて、しようがないだろ? というかこういうことは隠れてしてるとあらぬ誤解を招くって、遙かなる経験が叫んでる」 この状況は非常にマズイ。 なにがマズイって、たとえ魏延さんや関羽さんじゃなくとも、誰かに見つかった時点で彼女らの耳に入ることはほぼ確実なわけで《バタム》───あ。 「桃香さま、学校に関する工夫の増員の件で───はわっ!?」 「……あわっ……!?」 ……うん。来ると思った。こういうタイミングなんだよ、いっつも。 執務室の扉を開けて入ってきた朱里と雛里を見て、もういっそ自然と涙が出ました。ブワッとではなく、スゥウ……と静かに。笑顔なのは、あまりに予想が的中してたのに嬉しくなかったからだと思ってほしい。 「いや違」 「はわわわわわわぁああーーーーーーーっ!!!!」 「あわっ……あわわぁああっ……!!」 いつかの焼き増しを見ているようだった。 あれはいつだったっけー……なんて考えるまでもなく、すぐに呉の倉での騒動が思い浮かんだわけで。 ……その後、俺は駆けつけた魏延さんに絞め上げられた。 これぞ、世に云うネックハンギングツリーである。 ───……。 はぁ……と息を吐いてみれば、どっと疲れるこの体。 桃香と朱里と雛里がなんとか宥めてくれたお陰で魏延さんは引いてくれて、俺も宙吊り状態から解放されたわけだけど。 「あの……俺さ、魏延さんの気に障るようなこと、したっけ……?」 桃香のことが好きだとしても、問答無用で俺が悪いって思考基準はなんとかしてほしいです、心から。 「焔耶さんが桃香さまのことで周りが見えなくなるのは、その……いつものことですけど。一刀さんが来てからは、随分と行動に棘があるような気が───はわわっ!? 違いますよっ!? 一刀さんが悪いって言ってるわけじゃっ……落ち込まないでくださいぃいっ!!」 なんだろうか……桂花チックな人はみんな、基本的に俺が嫌いなのか? 思わずずしりと重い陰を背負って項垂れてしまった。 彼女に対して何かをしてしまったって記憶は全然ないんだけどなぁ……。 執務室の前で聞き耳立ててたりするくらいだから、桃香のこととなると一生懸命なのは解るけど───あれ? 「………?」 待て、待て待て待て? 聞き耳を立てる? 聞き耳……盗み聞き? …………あ。 「……桃香。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」 「うんうん、なに? お兄さん」 朱里や雛里が居るのに、なんとなく甘えたがってるのがひしひしと伝わってくるようだ。 でも訊きたいことはきちんと聞いてからじゃないと、いろいろと落ち着けない。 「えと。俺を“大陸の父”とやらにする話が、どっかから届いてるって噂を耳にしたんだけど」 「ふえ───?」 「はわっ───」 「あわ……!?」 ……あ。今なんか、びしりと空気が凍った音を聞いた。 「……お兄さん。それ、誰から……?」 「あー……その反応からすると、本当なんだ」 桃香からの質問を適当にぼかしつつ、話を進めようとする。 さすがにここでの仕事がいつまで続くか解らない張勲の首を絞めるわけにはいかない。 桃香もすぐそのことに気づいたのか頭をふるふると左右に振ると、顔を俯かせてハフーと溜め息。 「……うん。お兄さんが蜀に来る前に、雪蓮さんからそういう書簡が届いたよ。“お兄さんが今から蜀に向かうけど、しばらく一緒に過ごしてみて気に入れたら同意してほしい”って」 ……それは桃香の言い方であって、本当に“お兄さんが”とか書いてあったわけじゃあアリマセンよね? いや、今はそういう思考は横に置いておこう。 「そのことで、私もお兄さんに訊きたいことがあるんだけど……いいかな」 「ん。なんでも」 間を空けずに頷くと、朱里と雛里がそわそわし出す。 「私達は席を外したほうがいいでしょうか」……その言葉に桃香はにこりと笑って「ううん、一緒に聞いて」と言った。 どんな話になるのか……考えるよりも聞いたほうが早いな。よし。 「お兄さん。もし私や朱里ちゃんや雛里ちゃんが、お兄さんのことを慕ってますって言ったら……どうするかな」 「はわっ!? ととと桃香しゃまっ!?」 「あわわわわ……!!」 「あ、ううん違うよっ!? もしも、もしものお話だからっ!」 しこたま驚いた。今のは朱里と雛里が驚くのも無理ないよ、桃香……。 でも───……そうだな。 「ごめん、呉でのことも耳か目に入ってると思うけど、断るよ。俺は───」 「うん。たしかに書簡にも書いてあって、朱里ちゃんや雛里ちゃんからも聞いてる。お兄さんはちょっと頑固者だなーとか思ったけど───」 「けど?」 言葉を一度区切った桃香は、少し楽しそうにして胸の上で指を組んだ。 その“楽しそう”はやがて、いっそ口笛でも吹いてみようかってくらい可笑しさに溢れ、少しののちには彼女はにっこりと笑っていた。 「うん、けど。それじゃあ恋する乙女は絶対に引き下がらないよ? 恋をするってとっても素敵なことだと思うし、戦が終わった今だからこそ、そういうことにも本気になれると思う。だから───お兄さん。お兄さんも本気でぶつかってあげないと、みんな納得しないし……もしかしたらお兄さんが気づくより早く、誰かが傷ついちゃうかもしれない」 「え……」 傷つく? どうして───と考えるより先に、誘いからなにから断り続けている自分を思い出す。 でもそれは、魏のみんなを思えばこそで。 ずっとずっと魏のことを思って自分を鍛えた。必ずまたこの地に下り立てると信じて。その時間が長ければ長いほど俺って存在は魏のことを想えて。 でも、それって普通じゃないか? 強く焦がれる人を只管に愛したいと思う。同じ志の下、同じ旗の下で明日を夢見た人たちのみを強く想う。 言葉遣いが悪いとじいちゃんに怒られたり、曾孫を見せろと茶化されたり、信念を貫けって言葉を受けて意思を固くしたり───その全ては魏のためで、俺は………… 「お兄さんは魏のみんなのために頑張ってる。それはとても立派なことだし、お兄さんを見てると私ももっともっと自分に出来ることを増やしたいって思うよ? もっともっと笑顔が見たいし、自分に出来ることならそれがたとえ泥まみれになることだって構わない。ほんとにほんとにそう思ってるの」 「うん……」 「でもね、お兄さん。このままだと、お兄さんは華琳さんに怒られちゃうかもしれない。誰かをとても傷つけちゃうかもしれない。みんながみんな強いわけじゃないし、戦の中では強くても、こういうことでは弱い人はきっとたくさん居ると思う」 「それは───えと。恋愛事って意味で?」 「……うん。だからね、お兄さん。お兄さんが噂通りの御遣い様で、泰平をもたらすすっごい人なら───もっと“お兄さん”を見せてほしいな。世の中だけじゃなくて、人の心も救ってくれるような……とっても暖かい“お兄さん”を」 暖かな……俺? 噂通りの御遣いで、泰平をもたらす存在なら……? …………何かが引っかかる。 言われてる意味はちゃんと受け止められてるはず……なのに、答えに届かずもやもやとしている気分だ。 ただ、心の何処かから「早く気づけ」って言葉が聞こえて、けれど逆に「気づけば今までなんのために」って言葉も聞こえる。 何のことだか解らないのに、気づかなきゃいけない焦燥感。 気づかなきゃいけないのに、気づいたら今までの自分が否定されるような焦燥感。 自分の意識に胸焼けを起こしそうだ……少し、気持ち悪い。 「桃香。それでも俺は……」 「……ダメ。今のお兄さんの言葉じゃあ、どんなに断っても誰も受け容れてくれないよ? すっごくやさしいし、あまり面識が無くても“この人なら寄りかからせてくれる”〜って思わせてくれる不思議な人だけど、それはちょっぴり残酷だよ、お兄さん」 「え……」 「うん。言っちゃえばこれも恋しちゃった人の勝手な言い分だな〜って思うし、きっと否定しちゃいけない部分だよ? 同じ人を好きになったりするのって、とても勇気がいることだと思う。逆に、魏のみんなを好きになったお兄さんもきっと大変。うん、それは私やみんなが“こうなんだ”って思うよりも大変だと思う」 ……うん。大変な部分もそりゃあある。 けど、それよりも幸せだ。みんなと居ると嬉しい。 そこから自分だけが消えてしまうことが、たまらなく嫌だったのを覚えてる。 「それでもみんながきっと、“お兄さんでいい、お兄さんがいい”って思えるんだよ。私とお兄さんはちょっと似てるんだ〜って思うからこそ、お兄さん。怒られる前に、泣かせちゃう前に、ちゃんと気づいてね?」 「………」 気づいてね、と言われても。 正直に“なにに?”と訊き返したい疑問だ。 俺は何に気づいてなくて、桃香は何に気づいているのか。 呉からの書簡に書いてあったってことは、雪蓮も何かに気づいていて、俺だけが気づいていない……? それはいったいなんだろう。 大切なことには違いない……朱里や雛里を見ていれば、それも解りそうなものだ。 だったら気づかなきゃいけないのに、それがなんなのかがまるで見えな───いや、引っかかっているものがあるのに、それが答えに至ってくれない。 気づけと叫ぶ心と、気づくなと叫ぶ心。 どちらを受け取ればいいのかが、今の俺には見えなかった。 「うんっ、じゃあこのお話は終わりだねっ。えへへー……ねぇお兄さん、肩揉んで?」 「ほへっ? ……───あー……あの、桃香ー……? 今までのシリアス空気は……」 「しりあ……? なに? それ」 「………」 朱里と雛里が居るにも関わらずのこの甘えモードである。 というか切り替えるのが早い。少しはこっちのことも───……考えてくれてなきゃ、さっきみたいなことは言わないか。戒めよう。今の言葉をちゃんと心に刻んで、いつでも“何か”に気づけるように。 「よし解った、肩だな? 指圧の心は母心〜♪」 「《ぐりりりりぃ〜〜……》はぁぅうう〜〜……♪」 桃香が座る椅子の後ろへ回り、その肩に指圧を。 力を込めると相変わらず痛い右腕は、添えるだけに終わっているが。 それでも左でグイグイと圧して、凝っている部分をほぐしてゆく。 その際、軽く氣を使ってほぐすのがコツです。痛くなりすぎず、しかしきちんと圧する。 きちんと血が通るように、適度に圧を緩めるのも忘れずに。 ……と、そんなふうにして急にほのぼのな空気を発する俺達を、朱里と雛里はどこかぽかーんとした表情で見ていた。 そんな彼女らに手招きをすると、指圧のコツを教えて……あとはまあ、指圧地獄である。 「ふひゃっはわひゃはははっ!? おにいさっ、くすぐったひゃぅううっ!? 朱里ちゃんそこ痛ってあぅうぁああ……!? ひ、雛里ちゃっ……そこ、力抜けるぅう……」 筋肉痛はこれでしぶといから、来たる鍛錬に向けてしっかりとほぐしておく。 うん、俺の問題と桃香の問題とはまた別だ。 言われたことは胸に刻もう。だからといって他をおろそかにするのはだめだ。 ……と、無意味に張り切ったのがいけなかったんだろうなぁ。 「…………はっ、はっ……はぁああぅうう…………」 気づけば桃香はぐったりしていて、真っ赤な顔で机に突っ伏していらっしゃった。 で、俺と朱里と雛里が視線を向けるのは、処理しなければならない書簡の山。 『………』 長い沈黙が続いたのち、体が暖まったためか眠ってしまった桃香を、奥の部屋の寝台へと運んでから……俺達の戦いは始まった。 本日の教訓。何事も適度が一番。 それを、胸に刻んだものと一緒にしっかりと記憶した、よく晴れた日の出来事だった。
ネタ曝し *ゾンビのような声 ゾンビといったら……凍傷的にはバイオハザードなわけで。 *時間を忘れてゆったりリズム ホテルニュー岡部……だっけ? いや、ゆったり気分だったかも。 いや待て、ホテル三日月だったか? だめだ……思い出せない……。 *ネックハンギングツリー ネック・ハンギング・ツリー。相手の首を絞めて持ち上げるプロレス技。 Next Top Back