142/少年よ、大志を抱いて日々を踊れ -_-/─── とある日。 都の奥側に位置する屋敷の来客広間で、その声は漏れた。 「……もう一度報告しなさい、思春」 声を発したのは覇王、曹孟徳。 目を伏せ、少々呆れ顔のままに言葉を紡ぐが……内心は相当に動揺しており、“もう一度”と命じたのは自分の聞き違いであることを願った故だろう。 命じられた思春は「は……」と返し、再度報告をする。 「通路の一角にて倒れる北郷一刀を発見。声を掛けてみましたが反応は無く、そのまま意識を失いました」 「ええ。それで?」 「以降は……───信じられぬのも理解出来ますが、目に映る通りです」 言われた華琳はちらりと視線を動かす。 その先には一人の男が居て、目が合うと妙な視線を向けられた。 彼女は溜め息を吐くしかなく、そうしてから天井を見上げ、呟いた。 「どこまで退屈させない気なのよ、貴方は……」 呟きが聞こえたその場に居た者は苦笑。 一人、こてりと首を傾げる男はそののちに笑った。 その姿は妙に小さく、服装は何処にでもあるような庶人服……を、短くまくって着せたもの。独特の跳ねたクセッ毛は明らかにその男特有のものであり、しかし“その男”だと認識するには…………そう、“あまりに小さかった”。 「なぁー、なんなんだよぅこんなところに連れて来て。ここ何処? お前ら誰だよー」 ……北郷一刀ではあるソレは、子供になっていた。 それに伴い記憶も当時のもの辺りにまで戻ってしまっているようで、彼女を彼女として認識していない。 珍しそうに落ち着きなく動く視線はきらきらと輝いてはいるが、あとで不安に駆られて喚き散らかすのも想像に容易いと、華琳は溜め息を吐いた。 「説明したところで理解出来ないわよ。それよりも一刀」 「? なんでおれの名前知ってるんだ?」 きょとんとする一刀をよそに、華琳は言葉を続ける。 まず、自分自身が本当に北郷一刀なのかを訊ねるために。 訊ねてみれば当然頷く少年。 華琳は益々頭痛がするのを感じながらも、七乃が持ってきた薬と、それに付属されていたらしい書物を見る。 「……若返りの薬と成長の薬……さらには惚れ薬まで。どうしてこんなものが民の倉に存在しているのかと、いろいろと言いたいことはあるけれど……まあいいわ。ともかく、これを飲んだ所為で一刀は子供になったのね?」 「はい、恐らく。むしろそれしか理由が見つかりませんね」 「また厄介なものを飲んだものね……。まあ、数日で戻るとあるのだから、ほうっておいても勝手に戻るわよ。早く戻したいのであれば成長の薬を飲ませれば治る……のでしょうけれど、問題はその時の記憶ね」 「問題はそこなんですよねー……」 ピンと立てた指をコメカミに押し当て、七乃は唸る。 子供になった際に記憶が子供のものに戻るのなら、青年に戻っても記憶は青年のものになるだろう。 ただし、記憶が子供の頃のものに戻るのと、大人の記憶になるのとでは意味が違う。 子供から一気に大人になった場合、記憶の成長過程が存在しないことになる。 つまり……大きなお子様の誕生という結果に繋がる可能性が高い。 その場合、最悪元の一刀の記憶が上書きされてしまい、元に戻る可能性が消されてしまうわけで。しかしながら都の太守が居なくなったとなれば、都の機能に様々な問題が発生する。 そこで華琳が取った行動は─── 「はぁ……。早馬を出しなさい。しばらく私がここで政務を仕切るわ。許昌は秋蘭を主軸に、稟と風とで回転させなさい。それから春蘭と桂花には、私が居ない間につまらない諍いを起こせば罰を与えると伝えておくこと。以上よ」 「はっ───」 思春が手に拳を合わせ、一礼して退室する姿を見送ると、華琳は再度一刀を見る。 だぼだぼの服を着た少年。外見からすれば美羽ほどの幼い容姿だ。 ソレが自分を物珍しそうに見ている。 「これが一刀ね……。子供の頃はやんちゃなものだろうけれど、“これ”はそれの塊みたいなものかしら」 「なぁ。ここ何処?」 「しかも遠慮なんてものがまるでない、と。まあ、予測出来る範疇ではあるわね」 「? なんだよ、教えてくれないのか?」 「ここは都。その場を纏める者が住む屋敷よ」 「?」 「……説明したところで理解出来ないでしょう?」 「うっ……わ、解るぞ? 解ってるよっ! なななに言ってんだよお前!」 「………はぁ。先が思い遣られるわ……」 男版の春蘭を拾った気分だと頭を痛めた。 しかしいつまでも頭を抱えていたところで始まらないのだ。 地道に、まずは春蘭に言い聞かせる調子で言葉を並べてゆく。 もちろん、春蘭に言い聞かせる場合はそのほぼが理解に結びつかないわけだが…… 「えっ!? 俺今別の国に居るの!? すげー!」 「えっ?」 あっさりと受け入れられた。 子供の理解は、大人が思うよりも妙なところで加速しているものなのだ。 なによりもまず“信じられないこと”が優先される、普通では在り得ないことに目を輝かせやすい、などが挙げられるが、そのほぼは大体が男側に備わる。 「他の人にめーれーしてたってことは、お前偉いんだよな! すげー!」 「な、え……?」 その妙な理解力に、今度は華琳が慌てた。 てっきり春蘭のように梃子摺るかと思っていたのに、と。 「で、お前ジョルジュだろ! 金髪で相手の名前が解らない時は、とりあえずジョルジュだってじいちゃんが言ってた!」 「───」 とりあえず女性につける名前かそれがとツッコミそうになったが、大人の余裕を見せるために踏み止まった。というかジョルジュって誰? ジョルジュって何処? そんな華琳の戸惑いに、すっと横から割って入ったのは七乃だった。 「はいそうですよー? なんとここにおわす曹孟徳様は、この大陸を統べる王様なのです」 「王様!? おぉおお! すげー! ジョルジュすげー!」 「えぇそれはもうすごいんですからねっ? あとジョルジュじゃなくて、曹孟徳様です。あまり失礼のないようにお願いしますねー? 覇王とまで呼ばれる存在なんですよ」 「覇王! かっこいーなそれ! すげーじゃんジョルジュ!」 「………」 きゃいきゃいと燥ぐ七乃と一刀。 そんな二人をぽかんと見つめる華琳が小さく「手慣れたものね」と呟いた。 ……ジョルジュは聞こえない方向で。 「お嬢様で慣れてますから。持ち上げることならお任せですっ《ピンッ♪》」 いつも通りに指を立ててのにっこり笑顔だった。 なるほど、融通の利かなかった我が侭な頃から美羽と一緒に居るのだから、子供の相手など相当に手慣れていて当然か。 溜め息を吐いている内にもとんとん拍子で話は進み、あっという間に現状を把握した一刀少年は華琳の前に跪いていた。 この頃の子供は大体、ノリがいいものだ。 「知らなかったとはいえとんだ“ごぶれい”を、ジョルジュさま。俺は北郷一刀といいます。えっと、出来ることは剣道で、まだじいちゃん以外には負けてません」 「……七乃。あなたは教師を担当なさい」 「ええっ!?」 そして、そんな一連の流れを見ていた華琳は随分とあっさり、七乃に仕事を与えた。 安定した都には以前ほどの慌しい仕事は存在しない。 ならば適役な仕事があるのなら、早いうちから仕込むべきだろう。 そもそも蜀でも教師の仕事を担当したことはある筈だ。 そういった考えを視線に込めて見つめてみれば、「ようやく少しは休めると思ったんですがね……」と漏らしつつも頷いた。 覇王を前に随分と軽い行動ではあるものの、華琳は気にした風でもなくくすりと笑った。 「というか華琳さま? いっそ華琳さまが育ててみてはどうです?」 「育てる? いきなり何を言い出すのよ。これは一刀よ?」 これ、と言いつつ跪く一刀を指差す。 普段ではやらない行為ではあるが、これで案外頭の中は混乱しているのだろう。 華琳の行動に七乃も苦笑を漏らすが、「だからこそ」と続けた。 「子供だからこそ出来ることがあるんですよっ。ほら、例えば何も知らない内に自分に都合のいいことを刷り込んでおくとかっ」 「物凄い笑顔で恐ろしいことをさらりと言うわね……」 「手始めに“言われれば馬車馬の如く働く”ように条件反射的なことを刷り込んで───あれ? 普段とあまり変わらないと思った私はおかしいんでしょうか」 「……」 「元の姿に戻ったら、出来るだけ仕事が減るよう配慮してあげようかしら……」普通にそんな言葉が口に出て、溜め息を吐いた。 【強くなりたい】 子供の居る日常というものを考えたことがないわけではない。 自分が女であることを嫌でも意識させられた日から、いつかはそんな日がと想像したことなど当然あった。 しかしそれが、意識させた男の面倒を見るという形で思い知らされることになるなど、一体誰が予想できるだろうか。 世に轟くどれほどの天才軍師であろうと、きっとそれは成立しないに違いない。 「いーやいーやせいやせいやチェストチェストォァア!!」 「静かにしなさい」 「は、はいジョルジュさま!《ビッ!》」 「だからジョルジュではないと何度言ったら……」 北郷一刀の自室ではその北郷一刀自身が借りてきた猫状態になっていた。 先ほどまでの元気も何処へやら、物珍しさよりも不安が上回ると、彼はあっさりその不安に負けた。結果として、一刀が愛用している黒檀木刀を見つけてそれを振り回していたわけだが……振り回すどころか、重さに体が持っていかれる始末だ。 子供にはまだまだ重過ぎる代物であり、数回振るだけでゼェゼェと息を荒げていた。 「これがあの一刀に………………想像出来ないものね」 子供の頃から力があるわけではない。 そういう将がたまたま傍に居るからといって、近しい者が必ずそうなるわけではない。 それを改めて知り、一刀が自分や魏という国のために努力した上で、結果として呂奉先にも勝てるほどに強くなったことを誇らしく思う。 偶然の上での勝利だって構わない。 そこに確かな努力があり、結果さえもがあったのなら、自分はそれを王としても女としても誇ろう。 覇王と呼ばれた少女はそう思ってやさしく目を細め、笑った。 そんな笑顔に軽く警戒心を解いた一刀が、おずおずと言う。 「ジョルジュさまっ、ジョルジュさまは世を統べる王様なんですよねっ? どれくらい強いんですかっ?」 それは実に“男の子らしい”質問だった。 “どんなことが出来る王”なのかよりも、“どれだけ強い王”なのか。 この世界の子供がそうであるかは別としても、天で育った一刀にとってはそれが一番解り易い力関係というものだ。 ……それはそれとして、質問された華琳としては実に微妙だ。 即答で“あなたより強ければどうでも構わないでしょう”とでも言う筈だったが、見上げてくる少年の瞳はそれをするには残酷だと思えるくらいに輝いていた。 そんな“些細”で小さな頃の春蘭を思い出してしまった時点で、少年の瞳に期待を含ませる時間をたっぷりと与えてしまった。 即断即決は大事ね、と改めて思った……とある日の出来事。 こほんと咳払いをして彼女は言った。 「少なくともあなたよりは強いわね」 「む……お、俺だって強いんだぞ───ですよ? いくらジョルジュさまが覇王さまでも、俺が女になんか負けるはずが《がしっ》えっ? あ、や、ジョルジュさま?」 「そうね。その目で見なければ説得力に欠けるというのなら、存分に知りなさい。その目とその体とで」 「え、う、うわぁあああああああぁぁぁぁぁぁぁ───…………」 ───いい天気だった。 外に出れば気持ちのいい日光浴が出来るくらい、暑いとまではいかないとある日。 庭に連れ出された少年は、躾けをされる解らずやのごとく容赦なくボコボコにされて転がった。 「う、うぅうう……」 片手しか使わなかった華琳は鋭い目付きで一刀を見下ろす。 祖父以外には負け知らずだった子供が祖父以外に負けた。 その衝撃は計り知れず、しかも相手が女であることに強い衝撃を受けた一刀は、悔しそうに……しかしどこか現実を信じられない呆然した風情で華琳を見上げている。 「自分というものを知りなさい。強さに男も女も関係ないの。強い者が勝ち、弱い者が負ける。それだけのことよ」 「………」 「あなたは今、命を落とさずに自分の強さと“周りの強さ”を知ったわ。その上で負けないように生きるにはどうすればいいのかしら?」 「! つ、強くなる! なります! そしたらお前のことけちょんけちょんに───!」 「お前?《ギンッ》」 「ひぃぅ!? ううぐっ……お前は俺のライバルにしてやる! ぜぇえーーーったい勝ってやるんだからな!」 「あら。てっきりもう二度と負けたくないとか言い出して、得物を捨てるかと思ったわ」 「うぅっ……そ、そんなことするもんか! 絶対に勝ってやる! 勝てたら負けじゃなくなるんだ! か、勝っ……うぁあああああん!! ジョルジュのばーかばーかぁああ!!」 「え? あ、ちょっ───」 ふるふると震えながら叫んでいた一刀だったが、ついに泣いてしまうと走り出す。 さすがに泣かれるとは思っていなかった華琳は、そうした動揺の隙を突かれて“追いかける”という選択肢を手放してしまった。 しばらく呆然と立っていると、なんというか罪悪感めいたものがふつふつと。 「なんであれ勝ったというのに、どうしてこんな嫌な気分をしなければならないのよ……」 子供相手に勝利もなにもと思いはしたものの、街で子供に勝ってもこんな気分にはならないだろう。問題なのはきっと、子供とはいえ自分が気に掛けている男性を自分が泣かせた、というところにあるのかもしれない。 彼女がそれに気づくことは無かったが、しばらくはもやもやした妙な罪悪感を抱きながら、それほど多くもない仕事の再開をするために自室へと戻っていった。 ……。 その一方。 初めての敗北、初めて知った女性の強さに驚愕し、泣いてしまった一刀は地を駆け、地理も無いままに何処かへ行こうとしていた。 こういう時の子供の胸には目的地など必要無く、ただ走ることだけが必要だった。 心に湧いたモヤを払拭するのは慰めよりも力いっぱいのなにか。 単純だろうと、単純だからこそ効果はある。 やがて走り疲れた彼が辿り着いた場所は、屋敷の庭から少し離れた程度の場所。 知らない世界の外に出たのも初めてな子供が行ける場所など、ぐるぐる回っても近場くらいしか無かった。 「はっ……ぅ、ぐっ……ぐすっ……」 泣かされた。 泣いたというよりは、泣かされた。 しかも女に。 そういった意識がどんどんと少年を落ち込ませ、足が止まったら動けなくなっていた。 悔しいと思うと同時に“情けない”と心が尖るが、明らかに手加減をされたことが“心の尖り”さえも折ってゆく。 片手だ。 片手の女に負けた。 それも、こちらの攻撃をわざわざ待ってくれている存在に。 「〜〜〜っ……!!」 少年の心に火が灯る。 それは怒りと悔しさを糧にメラメラと燃え盛り、彼にこの世界での目標というものを持たせた。 「見てろジョルジュ……! ぜったいにけちょんけちょんにしてやるんだからな……!」 父や母に“女の子にはやさしく、弱い者には手を差し伸べろ”と言われたことがある。 けれどそれは“戦以外”での話だ。 戦いとなれば、ライバルにやさしくする奴なんていない。それはライバルに対する侮辱だ。ライバルは常にお互いを高め合う存在でなければいけないのだ。そう漫画に書いてあった。ゲラゲラ笑い合って仲良くする存在をライバルだなんて認めない。 こうすることがきっかけで正義ではなく悪だと言われるのなら、悪でいいと思える。 「強くなればいいんだよな、よしっ! じゃあ…………」 きょろきょろと辺りを見渡す。 が、見知ったものがほぼない視界に、油断して涙腺が緩みそうになる。 それをなんとか我慢すると、丁度傍を通りかかった見覚えある顔の手を掴んだ。 「? ……ああ、貴様か。こんな場所でどうした」 急に手を掴まれ、見下ろしたのは思春。 早馬の伝令を走らせ、その報告にと戻るところだった。 悪意を感じなかったためにすんなりと手を掴ませたが、手を掴む行為に悪意はなくとも、面倒事が起こるという予感がするのはどうしてなのか。 思春は嫌な予感を頭に浮かべつつも、普段通りの対応で少年の言葉に耳を傾け─── 「ねーちゃん強いか!? ジョルジュより強いか!? 強かったら俺を鍛えてくれ!」 「………」 ジョルジュ? と首を傾げた。 耳を傾けてみて早速後悔……というほど大袈裟なものではないが、困惑は当然だ。 しかしながら難しい顔もせずに一度だけ目を閉じる。 思考して、目を開くと訊ねる。 質問するのは一度だけだ。 「強くなりたいか。弱音を吐くよりも自分の弱さが悔しく思えるほど、弱い自分を変えたいか」 「変えたい! ジョルジュに勝てるんだったらなんでもやるよ! あ……でも、卑怯なことで勝ちたくない」 「卑怯卑劣を持ち出さずに勝ちたい? 貴様の勝利への渇望はその程度のものなのか」 「ゲームやってるのに殴って気絶させて、その隙に勝ったって嬉しくないのと同じだよ。俺は俺がちゃんと強くなって、実力でジョルジュに勝ちたいんだ」 「…………ところで訊くが。じょるじゅとは誰だ? 私の知る限り、そんな人物はこの都には居なかった筈だが」 「え? なに言ってんだよ。ほら、髪の毛がキンピカで、背なんか他の人よりちっこくとて、えーと……頭の横にトルネードな髪の毛がぴょこんとついた……」 「とるね……?」 「ほ、ほらっ! ぐるぐる巻きの髪の毛の、鎌を持った死神みたいな女だよ!」 「───」 思春は、彼女にしては珍しく思考が停止するのを感じた。 しかし持ち前の冷静さを無理矢理押し出し、復活に成功する……のだが、同時に気が遠くなるのを感じた。 “ジョルジュ=華琳様”。 その方程式が出来てしまうと、自分はこの大陸の覇王を倒す手伝いをしなければならないことになり……いや、もちろん謀反どころか戦を起こしたいわけでもないし、子供の戯言と言ってしまえば片付くのだが…… 「……!」 「………」 強い意志を以って自分を見上げる少年の目は、何かをやり遂げんとする蓮華の目によく似ていた。そして、彼女を少年に重ねてしまった時点で、その顔が悲しみに歪むのを見る勇気が彼女に湧き出すことはない。 それに、まあ。 結局は子供の戯言なのだと、試すつもりで軽く引き受けた。 どうせすぐに音を上げる。 子供の意思力など、辛さの前ではもろいものだ。 ……そう、思っていたのだが。 ───……。 それはある日のことだった。 弱い自分に決別をと立ち上がった少年だったが、その心はあっさりと折れた。 思春の予想はそれはもう的中で、少年が持つ言葉の責任は、今日までの数日しか保たなかったといえる。 その日、少年は人にとっての最も楽な“挫折の道”を歩もうとしていた。 子供に教えるものとはいえ、思春の鍛錬は本格的すぎた。 「………」 疲れきった体で庭に倒れて空を見つめる少年。 強い自分を諦めるための言い訳ばかりが頭の中を埋め尽くしていた。 鍛えて一日目でいきなり華琳に挑み、こっぴどく負け、泣いた。 華琳は華琳で「いつになったら戻るのよ」と顔を合わせる度に呟き、少年にはそれがどういう意味だかは解らないものの、彼女にとって自分がまるで眼中にないことだけは理解出来ていた。 子供は大人の行動や視線には敏感だ。 だから、自分がまるで必要とされていないことも理解出来ていたし、それなら振り向かせてやるとムキにもなったが……結局は子供がきゃいきゃいと騒ぐ程度の出来事で片付けられてしまう。 「……いてー……」 体中は筋肉痛。 ふと冷静になれば、なにやってんだろと呟きたくなる。 華琳を倒すためにと張り切ってはみたが、結局は思春にも負けて、情けなさに気が遠くなる。 結局……自分は手加減されていたのだと。 自分が育った場所でも手加減されていたのだと、ひねくれた想像をしてみれば、頑張る理由はどんどんと蝕まれていった。 頑張っても無駄なんじゃないか。 そんなことに時間を潰すくらいなら、友達と遊んでるほうが楽しいだろ。 自分を正しく許してやりたくて、都合のいい言い訳がぽろぽろと零れ出る。 「……あ、あほ───」 アホらしい。 その一言を呟いて全部やめてしまえばいい。 そして家に帰ろう。 もう剣道なんてやめて、負けない理由を作ればいい。 「………あれ……?」 そう思ったのに、思った瞬間に華琳の言葉が思い返された。 “二度と負けたくないからと、得物を捨てるかと思った” 「───!」 思い返されたら、自然と涙が出てきた。 それはとても悔しく、言葉通りに武器を捨ててしまえば本当に華琳に負けてしまうことを意味している。幼いながらも、それが理解出来ていた。 「〜〜〜っ……ちくしょう……!」 仰向けだった体を横にして、丸くなって涙した。 歯を食い縛って目をぎゅっと瞑って、声を殺して。 クラスメイトに見られたらなんて言われるだろうか。 だっせぇ、と言われるのが簡単に想像できた。 けれども、彼らは何度も立ち上がる漫画の主人公に憧れる。 主人公はどうして立ち上がるんだろうか。こんなにも辛くて、面倒くさいことを前に。 こんなの、痛くて辛いだけだ。 “ほんのちょっとの自分のため”を理由に、世界中の我が侭を一つの体で叶える人形。 英雄は、世界ってものに操られる人形だ。 それに気づいた時、いつからか英雄というものが可哀相に思えた。 「………」 隣の少女を守りたくて強さを求めた子供が居た。 子供は強くなって、困難にぶつかりながらも成長して、やがて青年になった。 青年はただ強いからって理由でモンスターを倒さなきゃいけなくなって、その強さがいつの間にか世界に認められて、魔王と戦わなきゃいけなくなっていた。 青年は魔王を倒すことが守りたい少女を守ることに繋がるのならと立ち上がって、魔物を倒せば感謝されて、倒せなければ見下された。……自分ではなにもしない村人たちに。 ひどく惨めでちっぽけな人生だなと思った。 少女の隣で少女だけを守っていればよかったのにと何度も思った。 いつしか魔物を倒すのが当然で、感謝すらされなくなった青年を見て……英雄はただの操り人形であることを理解した。 「………」 涙を拭う。 自分は操り人形にはなりたくない。 守りたいものは自分で決めるし、戦う理由だって自分で決める。 悔しさの底に居るような気になっていた一刀だったが、英雄の在り方を思い出すと、目に力を籠めた。“自分で決めたことくらいは貫こう”と。 「……いらない……」 立ち上がる。 体が筋肉痛で痛むが、無理矢理に立ち上がる。 指差されて笑われたっていい、もう気に……するかもだけど、気にしない。 痛くたって構わない、辛くたって強くなれるなら我慢しよう。 だから。 「格好いい自分なんて……っ……いらないっ……!」 食い縛った歯の隙間から押し出すように呟いた。 思い出したのはいつかの日。 同年代の男に剣道で勝って天狗になり、祖父に挑んで無様に負けた。 言い訳をいくら並べようとも悔しい気持ちは消えないで、そんな少年に祖父は言った。 “泣くほどに悔しいことが起きたら、その場でそれまで持っていた格好よさなぞ捨ててしまえ”と。 “どこまでも格好つけたいのなら、どんな理由があろうと誰かを守り、女は優先して守り、誰かに乞われたなら馬鹿のように救っていろ”と。 意味は解らなかったが、それでも言葉だけは覚えていた。 けれども、その意味もたった今解った。 「………〜〜〜っ……」 ぐしぐしと腕で涙を拭い、鼻をすする。 格好なんてどうでもいい。いつか勝てるなら何度だって負けてやる。 そして、負かしてやったら言ってやるんだ。俺のほうが強いだろって。 「つっ……うくっ……い、いたくないっ……! あ、ちが……い、いたいっ……!」 少年は格好良さより勝利を選んだ。 世界に利用されるだけの英雄よりも、自分の意思を貫く悪を選んだ。 男だから痛くないと我慢するより、素直に受け取って痛いと呟き、泣いた。 そう。それは、本当に些細なタイミングで…… 出てくる涙を何度も何度も拭っては、大声で泣く。 一頻り泣いたら、もう一度さっきのねーちゃんに稽古を頼むつもりでいた。 心がまだ回復し切っていない少年の元へ─── やがてようやく涙や荒れた心が治まりを見せ始めた頃。 一人の少女が、その場へと現れた。 「まったく、七乃のやつめ、妾をほったらかしにして何処へ行きおったのじゃ……。主様もおらんし、誰に訊いても答えもせぬしの……」 「!!《びくぅ!》」 美羽……袁術であった。 自分より少し大きいくらいの女性の来訪と、大声で泣いていたことに羞恥心を感じた一刀は慌てて涙を拭おうとするが、既に何度も拭ってびしゃびしゃの服では拭い切れるわけもなく。 「うみゅ? これお主、そんなところでなにをしておるのじゃ?」 咄嗟になんの対処も出来ない自分に情けなさを感じてしまえば、治まりかけた嗚咽がまた溢れた。そんなタイミングで美羽に見つかってしまい、せめてそっぽを向いてやりすごそうとした。 「あ、う……な、泣いてるんだ、ほっといてくれ」 けれど素直に生きようと決めたばかりだったことを思い出して、震える喉でそう言う。 それを聞いた美羽は「それはまた随分と勇気のあることよの」と呟き、放っておくどころか傍に寄り、座り込んで泣いている一刀の顔を自分に向かせると、雑ではあるが自分の服の袖で一刀の目を拭ってやった。 「あ、な、なにしてんだよっ!」 「む? 涙を拭っておるのじゃが?」 「いいよっ、やめろよっ! 流すだけ流すって決めたんだ! おれっ……俺は、まだ強くないから……弱いうちに……ひぐっ……うっく……流すんだから……!」 「おお……なにやら困っておる顔が主様によく似ておる孺子じゃの」 実は数日で治るということで、詳しい話を聞いていない美羽。 七乃は面白がってあえて話そうとしたのだが、それはもう当然とばかりに華琳に止められた。無駄な騒ぎを広めるなと、ぴしゃりと。 「主様も泣いてしまえば斯様な顔になるのかの……う、うみゅう……」 何も知らない美羽が目の前の子供を一刀だと思える筈もなく。 少年の泣き顔を見て、自分が困らせ、泣きそうになっていた一刀の顔を思い出してしまったら構わずにはいられなかった。……いられなかったのだが、どう接すればいいのかが解らない。 人付き合いに慣れてきたつもりではあったが、それもほぼ一刀が居たからこそであり、現在その一刀は居ない上に目の前で泣く存在は子供。 自分の方が年上なのだからしっかりしなければと、妙な使命感が湧くには湧くのだが空回りしているようだった。 「うみゅ……そうじゃの。泣きたい時はたんと泣くのが一番じゃ。遠慮せず泣くがよいのじゃ」 いろいろ考えてはみたものの、やはり泣かせておくのが一番だと思ったらしい。 しかし泣けと言われて泣けるほど、子供というのは─── 「うぐっ……うっ……うぁああ……」 ……素直でした。 泣き顔を見られたことに情けなさを感じるままに泣き、自分の未熟にも泣き、子供な自分にも泣き、そういういろいろな鬱憤を全部吐き出すつもりで少年は泣いた。 その包み隠さぬ泣き様を、美羽はただ見守っていた。 「……我が侭ばかりはいかぬと思っておったが……素直に泣くことは我が侭とは違うもの……よな?」 ただ周囲の人の気を引きたくて泣いているのであれば、美羽だって大して構いはしなかっただろう。けれど少年は自分の情けなさを認めた上で泣いていた。だから、根気良く泣き終わるまで待とうと思っていた。 自分が泣いた時は、一刀がそうしてくれたのだからと。 ……。 どれほど経ったのか。 いい加減体中の水分が無くなるんじゃないかと思うほど泣いた少年は、鼻をすすりながら美羽を見ていた。 「………ぐすっ」 「おお、泣き終わったかの?」 涙を拭ってやった美羽の袖もびしゃびしゃだ。 それを申し訳ないと思ったのか、少年は頭を下げた。 口を開けると意味も無く泣いてしまいそうだったから、口は開かなかった。 「構わぬのじゃ。妾も失敗続きの際には、主様の胸を濡らしてしまうが……主様が怒ったことなど一度もないからの。うむうむ、やはり主様は偉大よの」 目を伏せ腕を組み、どこか誇らしげにうんうんと頷く。 そんな少女の姿を前に、少年はなにやらもやもやとしたものが浮かんでくるのを感じた。 「ほれ、立ち上がれるかの?」 「……《こくり》」 促されるまま、差し出されるままに手を掴み、立ち上がる。 途端にふらつく自分の足に驚いて、泣くのって随分と体力使うんだなと思いながら……ぽすんと支えられた。 「……えわっ!?」 閉ざしていた口から出る、悲鳴にも似た驚きの声。 バランスを崩したまま倒れるのかと思いきや、目の前の少女がぽすんと抱き止めてくれたのだ。丁度、彼女の肩に顎を乗せるような形で。 ……しかも口を開けてしまった途端に漏れてくる嗚咽がまた、てんで自分の思い通りに治まってはくれず、また泣き出してしまう。 「お、おぉおお……? な、なんじゃ? また泣くのかの? ……やれやれ、仕方の無い孺子よの。胸を貸してやるから存分に泣くが…………う、うみゅ? こういう時は肩を貸すというのかの? しかし肩を貸すでは、倒れそうになった者を助けるような…………おおっ、間違ってはおらぬのっ! 肩を貸してやるのじゃ!」 答えは得たとばかりに元気に言う少女。 少年はそんな、何処か抜けた調子とやさしさ、そして自分が暖かさに包まれている事実に促されるまま、もう一度泣いた。 溢れてくるのは羞恥と安堵。 そこから羞恥なんてものを無くして、安堵だけを受け入れる。 自分でも少女を抱き締め、思い切り甘えるように泣いた。 ……。 ……やがて、今度こそ涙も涸れると、通った鼻が少女の香りを拾い、途端に恥ずかしくなる。しかしどうしてか少年の手は抱き締めた少女を離したくないらしく、抱き締めたままに硬直する。 「…………《かぁあ……!》」 顔が熱い。 恥ずかしい、のは確かだ。 けれど、それだけでこんな風になるのは初めてで……恥ずかしいのだけれど、離したくないという奇妙な状態に陥っていた。 「んむ、もう泣き止んだの。まったく、いったいどれほど泣くのかと思ったぞ」 少女は少女で、自分よりか弱い存在を見つけたとばかりにお姉さんぶりたい部分もあって、ぽんぽんと少年の背中を撫でていた。 その感触が気持ちよく、ずっとこのままで───なんて考えたのだが。 「………………!《ゴシャーーン♪》」 「!?《びビクゥッ!!》」 彼女の肩から見る景色。 その先に、目をゴシャーンと輝かせ、自分を見ている女性が居ることに気づくと、慌てて少女から離れた。 「うみゅ? どうしたのじゃ突然。もういいのかの?」 「あ、う、うしっ、うしろっ……」 「? ……おおっ、七乃っ」 そう。七乃である。 “抱き合う美羽と一刀”に目を輝かせていた、七乃である。 「そう……そうですか。これは盲点でした……! 心が少年の頃に戻るなら、その時にいろいろやってしまえば大人に戻った際にもその記憶が……!」 「お、おー……? これ、七乃? 七乃ー……?」 「現時点、一刀さんはお嬢様のことを可愛い妹のように見ているようですから、そこに少年期からの恋心を加えてしまえば……! ああっ、どうして今までこんな素晴らしいことを思いつかなかったのかっ!」 目をきらんきらんと輝かせ、突然ハッとした七乃は美羽の前から一刀を攫い、離れた位置でヴォソリと会話を始める。 「実はですね一刀さん。お嬢様は強くて包容力のある人が好きでしてね」 「おじょ……? だ、誰だよそれ」 「あらあら顔が赤いですねー。解っているのに訊くのは野暮ってものですよ。あそこに居る、袁術さまのことに決まっているじゃないですか」 「……へ、へー……。あいつ、えんじゅつっていうのか」 「泣いているところにやさしくされてコロリですか。案外ちょろいですね」 「な、なにがっ───…………うぅう……」 素直に生きようとしたことが、いろいろと彼を苦しめていた。 が、もしこれが恋とかそういうのだったとするのなら、素直に生きなきゃ変われない。 そう思った少年は、一度目を閉じてからクワッと開き、認めた。 「そ、そうだよっ! なんか知んないけどあいつのことが気になってるよっ!」 この頃の子供なんて、無自覚に女と一緒に居るのはダサイと思うものだが、少年はむしろ一緒に居たいと思っていた。 なんとか気を引いて自分に話し掛けてほしいとも。 ……ようするに自分から話し掛ける勇気が沸いてこなかった。 妙なところで勇気が無いのは昔からだったようだ。 「はいっ、素直で大変よろしいですっ。けれどあなたは残念ながらお嬢様には好かれてません」 「えぇうっ!?《がーーん!》…………そ、そうだよな……泣く男なんてダセェもんな」 「いえいえそういうことではなく。以前のお嬢様でしたら情けないとか言っていたかもですけど、今のお嬢様はなんというかこう、以前にはなかった包容力がありますから。……全部“主様”の影響でしょうけど」 「? ぬしさま? そういえばあいつも言ってたな。なんなんだ、それ」 直感からか、少しムッとした表情で言う。 七乃はそんな少年の嫉妬ににんまりと笑みつつ、「お嬢様が気になっている存在です」ときっぱりと言った。……嘘ではない。 「…………《ずぅうううん……》」 「〜〜〜〜……!!」 その時の少年一刀の落ち込み様といったら、七乃が体を震わせるほどに可愛かったという。思わず抱き締めたくなる衝動に駆られるが、それは我慢。 「い、いえいえっ、気になっていることは確かですが、ようするにあなたがその“主様”より強く包容力のある人になればいいんですよ」 「…………俺がぁ……?」 泣いたことやショックなことで、重すぎる頭を垂れたままにじろりと七乃を見る。 そんな彼ににっこりと邪悪な笑みを浮かべ、「はい」と返す七乃さん。 それからは言葉巧みに一刀の心を誘導し、放っておかれた美羽が手持ち無沙汰でおろおろとし始めた頃。 「俺っ、強くなる! 強くなって、好きな奴くらい守れる男になるんだ!!」 ……洗脳は、完了していた。 その頃には芽生えそうだった恋心は無理矢理開花させられ、これは恋なんだと結論づけた彼は早速駆けた。 ……どうせすぐに諦めるだろうとタカを括っていた、思春のもとを目指して。 「……子供は素直でいいですねー」 「おぉ? 七乃、話は終わったのかの?」 「はいお嬢様っ、これできっと一刀さんはお嬢様にめろめろですっ」 「めろめろとなっ!? …………よく解らんがよい響きじゃのっ! ところでその主様じゃが、今はどこに───」 「さあお嬢様、ここでこんな話をしている場合じゃあありませんっ! 一刀さんの方向性を磐石のものにするためにも、これからの接し方を勉強しませんとっ!」 「ほわぁっ!? こ、これっ! 急に引っ張るでないっ! それよりも妾は主様が何処におるのか───おぉおおーーーっ!!?」 引きずられるままに去っていった。 本日もいい天気。 そんな晴天の下で、少しずつだが様々な感情が動き始めていた。 【思春期? いいえ、慣れない感情に困惑する子供です】 少年の日々は続く。 困惑しながらも「俺を鍛えてくれ」と再度言われた思春がそれを受け取って数日。 子供というのは飲み込みが早く、教えたことを素直に吸収した。 体を鍛えても成長しないのは以前のままだが、氣を教えてみれば妙な固定意識が無い分あっさりと習得。しかも普通の子供なら嫌がることも、少年は率先してやった。 「……やれやれ」 溜め息を吐いたのは庶人服ではなく、朱の服に身を包む思春。 都で将として任命されたのち、服は以前のものへと戻ったが、髪は下ろしたまま。 長い髪がさらりと揺れるが、それが行動の邪魔になることなどない。 綺麗な体捌きに少年が目を輝かせて真似をするものの、当然上手くなどいかないわけで。自分に出来ないことをする思春を、一刀はすっかり師として仰いでいた。 ……呼び方は“ねーちゃん”のままだが、咎めたりしない分、これで案外本人も気に入っているのかもしれない。 「………」 ふと蓮華のことを思い出す。 「守りたいものが出来た」などと真面目な顔で言われ、厳しく鍛えてやっても折れない存在をその目で見た所為だ。 今、なにをしているのだろうと考えながら、警邏を続けた。 屋敷に戻ればまた鍛錬だ。 「……ふぅ」 あんな姿でも一応は現在の主なのだから、鍛えてくれと頼まれれば鍛えよう。 それにしても子供になっても無茶が好きな男だ。 飲み込みが早いことを華琳に知られれば早速知識を叩き込まれ、嫌がれば美羽のことを出されてあっさりと頷く。弱っていたところに差し伸べられた女性の手はよほどに温かかったようで、少年はそれはもう懸命に頑張っている。 「頭が良くなれば様々な面で守れるわよ」と言えば知識をつけ、「戦に強ければ」と言われれば力をつけるために頑張り、「料理が」と言われれば料理を作りと……ある意味で遊ばれている。……のだが、やっている本人が真剣な上に吸収も早いものだから、止める気にはなれなかった。 溜め息が出るのはそうした心の疲れからくるものだろう。 (このまま元の姿に戻るまで鍛錬させたのなら、いったいどうなるのだろうか……) 子供の頃から勤勉であり真面目な存在になるのか。 それとも現在学んだことなど忘れるのか。 はたまたすべての記憶と経験を得た北郷一刀に至るのか。 どんなことになるにせよ、そう悪い方向には転ばないだろうと結論づける。 朱の陽に重なった姿を見た時から、どうにも目で追う男ではあったものの……もっと落ち着くのならそれでよし。変わらないのであってもそれでよし。都の主として選ばれるきっかけとなった人の好ささえ無くならなければ、それでいいのだと思う。 「………」 警邏を続ける。 騒ぐ人は居るものの、問題らしい問題も起こらない都を。 仕事の管理者が一刀から華琳に変わってから、緩んでいた部分を引き締めるような行動が目立っているものの、それはそれで民に緊張を思い出させるいい切欠になっている。 そういった厳しさの中、けれど子供は元気に走り回っている。 子供は元気が一番というのが北郷一刀の方針であるらしく、子供が笑って遊べない街だけは絶対に作らないようにと、様々な面で頑張っていた。その結果があの笑顔であるならば、それも悪くはないのだろう。 引き締めていた顔が少しだけ緩むのを感じて、彼女は意識して顔を引き締め直した。 その過程で目を瞑り、開いた時にはいつもの表情に戻っ───……たのだが。 「くぬっ……この私が負けるなど……!」 「あははっ、ねーちゃんへただなーっ」 「おねーちゃんおねーちゃん、つぎわたしとあそんで? ねーねー、ねーったらー」 「………」 戻した先の視界に映る、もう一人の一刀就きの将を見て、気が遠くなるのを感じた。 どうやら街の一角で子供と遊んでいるらしく、手には一刀が真桜に作らせた妙な形の物体を握っている。 「貴様……こんなところで何をしている」 「お、おおっ、思春か! いや、それがだな……この子供らめが私に挑むというのでな。戦とあってはこの華雄、退くことなど出来ん。なので軽く捻ってくれようかと思ったのだが……」 手にしているものと、眼下にあるものを交互に見る。 現在で言う太鼓のようなものの上に、同じ妙な形の物体が転がっていた。 少年少女らはそれを手に取り、太い糸のようなものを巻き、回しては遊んでいる。 ……いわゆるベーゴマである。 「力任せに回せばいいというものでもないらしいのだ。北郷一刀は子供たちの中でも最強を誇っているらしいのだが……むぐぐっ」 「………」 頭が痛くなり、頭に手を当て俯いた。 「北郷一刀の祖父が得意だったそうだ。それで少々かじったようだが……フッ、子供になっている今のうち、こうして練磨し、元の姿に戻った時には完膚なきまでに負かして───《ガッ》ぬわっ!? お、あ、こら思春! 貴様なにをする! 私にはまだ戦が───!」 「警邏の時間だ」 「ぐっ……! ならば仕方ない……! 子供らよ、この勝負は預けたぞっ!」 「またあそんでねー!」 「っへへー! またおれがかつもんねー!」 「なっ、なにをこのっ! 次こそは私が───!」 「子供相手に向きになるな」 襟を掴まれ引きずられる将の図。 なにやら喚いているが、朱の彼女は無視して歩き続けた。 勝負に熱くなるなとはいわないが、それで仕事を疎かにしたのでは意味が無い。 「……庶人の子供は遊んでいるというのに、あの子供は……」 「む? ああ、北郷一刀か。以前でもそうだったが、子供になっても仕事漬けとはな」 引き摺られる体勢から立ち直り、隣を歩くは紫の人。 表情をパリッとしたものに戻せば、周囲に緊張が走る。 「まあ、これで元の姿に戻れば相当に真面目な男になるだろう。戦も強く頭も切れる。主として置くには最適な存在だ」 「……それは、北郷一刀か?」 「? どうなろうと北郷一刀は北郷一刀だろう」 「……………………そうだな」 いろいろと考えることはある。 これからどんなことが起き、どのように彼が経験を積むのか。 その一つ一つがのちの北郷一刀になるのなら、迂闊な悪影響など無いに越したことはない。たとえばサボり好きのどこぞの元王にサボリの極意を伝授などされようものなら……! 「怠惰は敵だ」 「? おお、そうだな。その通りだっ」 思春がこぼした言葉を拾い、華雄は声を大にすることで一層に気を引き締めた。 それからの警邏も特に問題なく終わり、屋敷に戻ってみれば、なにやらがっくりと落ち込んでいる一人の少年。 庭でも部屋でもない通路の途中で、暗黒を煮詰めたような重たげな空気を背負って膝を抱えて座り込んでいた。 「ど、どうした」 さすがに異様な空気を感じた思春が、戸惑いがちに声をかける。 ギギギ……と重たげに振り向いた顔は紛れも無く北郷一刀少年だ。 しかし表情が明らかに死んでおり、聞けば美羽にお茶(蜂蜜水)に誘われたんだが、舞い上がったり緊張したりの連続で心にも無い感想を言ってしまい、怒らせてしまったとか。 なんとも不器用というか、子供らしい出来事だと呆れもすれば気も抜けた。 「うう……ねーちゃん、俺、どうすればいいかな……。美味しかったんだけど、なんか恥ずかしくて、頭がぐるぐるしてて……」 こんなことで頼られるのは好きではない。……のだが、困ったことに自分を姉だの師匠だのと言ってくる存在を突き放すのは、どういうことか躊躇われた。 ならばどうするのかという話だ。 自分にはそういう経験は無いし、あったとしてもむしろ同じことをしていそうな気さえする。 「ならば己の強さを示し、見直させればよいのだ!」《どーーーん!!》 ……などと悩んでいると、隣で話を聞いていた紫の人が自信満々に仰った。 弱っていた心へのその言葉は、困ったことに道を開く光になってしまったようで……少年はパァアと顔を輝かせるとバッと立ち上がり、「俺、やるよっ!」と言って走っていってしまった。 「よしよし、そうだ。迷うより突き進めばいいのだ。壁があれば粉砕して進む……そんな強き男にお前はなれ!」 「………」 華雄は胸の下で腕を組み、にやりと笑いながらそんなことを言っていた。 少しののち、一刀少年が政務中の華琳に勝負を挑み、こてんぱんにされたという話を耳にする。(七乃から) もはや何も言えず、溜め息とともに仰いだ空は、良く晴れていた。 ……。 思っていることを素直に言葉にするのは難しい。 格好つけたがりの子供の頃など余計で、それが身に染みてしまっている大人も余計。 だからといってなんでもかんでも馬鹿正直に口にすれば、周囲に嫌われるのは解り切っていることで、言葉にしないやさしさや自衛手段と言うものを、人は子供の頃から少しずつ周囲に学ぶ。 「ご、ごめんっ! 俺が悪かったよっ! そのっ……ほ、ほんとは美味しかったんだ!」 結局、コテンパンにノされた一刀少年が選んだ方法は、正直に謝ること。 本音で生きようとしていたくせに、恥ずかしさや照れくささに負けるとは何事かと自分に喝を入れての特攻だ。もちろん恥ずかしさのあまり顔は泣きそうな子供のそれに近かったが、それでも言い切った。あとは美羽の反応を待つ……だけなのだが、沈黙が長ければ長いほどに少年は泣きそうになった。 子供の頃など、“女に謝るのなんてダサイ”と思っている少年が大半だろう。 ただ一緒に遊ぶことすら拒む者も居るほどだ。 そんな厄介な考え方を持っていると謝るのも一苦労で、ごめんなさいのたった一言が言えない時ってございます。 「許さんのじゃ」 「えぇえええーーーーーーっ!!?」 そしてそれが受け入れられなかった時のショックといったら、言葉に出来ない。 ここで選べる選択肢が、謝り倒すか“ならもういいよ!”と喧嘩別れをするか。 子供の大半は後者になりがちではあるが、多くの場合はここで諦めない者が勝ちを拾うのだろう。ただし─── 「う、ぐっ……じゃあどうしたら許してくれる!? 俺、なんでもするぞ!」 ───そこでこう言い出してしまう人の大半は、のちに尻にしかれる存在に高確率でなる。……今さらな気もするが。 「ふむ……? そんなに妾に許してほしいのかや?」 「お、おおっ!」 「おお、そうかそうか、中々に見所のある孺子っこよの。では───」 一刀を主様と仰いでからどれほどか。 少女の瞳に、自分に許しを乞う者の姿が映るのはどれほどか。 奇妙な悪戯心をくすぐられた少女は少年に一つの命令をし、少年は顔を輝かせて走った。走って走って走って……その日。北郷一刀製作の蜂の巣箱に特攻を仕掛け、蜂に襲われる少年が発見された。 ……。 子供とは無邪気というが、無邪気だからなんでも許されるわけでもない。 「馬鹿者、蜂の巣箱を乱暴に扱う奴があるか」 「だ、だって新鮮な蜂蜜水を持ってきたら許してくれるって! やらなきゃ男じゃないだろこれは!」 「からかわれていることに気づけ、馬鹿者」 襲われながらもなんとか逃げ出し、刺されたところがないのはどんな奇跡か。 咄嗟に氣を纏ってやりすごすことに成功したといえばそれまでなのだが、慌てている時にそれが出来たのは中々だと彼女は感心した。……感心したのはそこだけで、自ら危険なことをやったことにはご立腹ではある。 “ねーちゃん”と言われている内に、妙な錯覚でも覚えてしまったのかもしれない。 「ていうかさー、ねーちゃん。俺、馬鹿者じゃないぞ? そりゃ馬鹿かもしれないけど、北郷一刀って名前があるんだぜー? なのに馬鹿者だのお前だの貴様だのって。人のことをきちんと呼べないのはよくないって、じーちゃん言ってたぞ?」 「未熟者はそれで十分だ」 「……なんだよ。俺だって頑張ってるのに」 ぶちぶちと文句を言うが、思春自身も思うことがないわけではなかった。 別に名前を呼ぶくらい構わないのだが、どうにも呼ぼうとすると抵抗が出る。 名前を呼んだ方が早い状況でも相手に気づかせてから貴様と呼ぶ、といった面倒な方法を取るくらいに、名前を呼ぶ行為自体に抵抗を覚えていた。 それは何故だろうと考えてみるのだが………… (か…………かず───〜〜〜……!) 心の中で相手の名を呼ぶ自分を想像してみれば、妙な気恥ずかしさが前に出る。 やはり無い。 名前など呼ばなくても“お前”で十分───いや、貴様で十分だ。 (大体、この男が“天では夫の方が長年連れ添った妻のことをお前って呼ぶんだ”などと言うのが悪い。そんなことを聞かせておいて、“お前”から“貴様”になったという文句もないというものだ) ……何気ない会話の中で拾った言葉が、のちの行動に影響を及ぼすことなんてよくあることだが、ある意味で純粋というか初心である。 しかし相手は子供なのだから、自分も少しは前に出てみるのもいいのではないか。 この先ずっと、お前や貴様で行くのでは“都の父”に対しては失礼だろう。 そう。そもそも相手は、今では自分の主君なのだから。 (…………ならば……か、かず……かず───……明日からにしよう) 言おうとしたが無駄だった。
92へ続きます。 Next Top Back